第1話 夜

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第1話 夜

 夜の底で、危うく吠えそうになった。  寂し過ぎて殺意が湧いたせいだ。  繁華街の通りに、彼はいた。どんなに夜が暗くても、都市は光と喧騒に溢れていた。 (なんて群れだ)  人々のうねりの熱気が、彼を苛立たせていた。その流れに従いも逆らいもせずに立ち尽くしている。先程からずっとそうしている。  そんな彼を気にかける者などいない。  己だけがあらかじめ、見えない檻の中に隔離されている。そういう気さえしていた。 (醜くて、騒々しくて、反吐が出る)  鉄格子など幻であり、存在しないのだと、知っているはずだった。  悶々とした思いは、喧騒に融けて消える。 (駄目だ、落ち着け)  彼はずっと、唇を固く閉ざしていた。口中では幾度も生唾を飲んだ。 (孤独なのは自分だけじゃない。そんな他人いくらでもいる。頭でもそうわかっている)  彼にとって、他人はすべてひと塊の群れだった。どんなに背景に違いのあるはずの他人も、群衆の中では扁平なひとつになってしまう。  忌むべき人の群れから抜け出したくなって、歩き出す。  それでもどこまでも続く、喧騒と熱気。  彼の耳や肌は敏感に、それらを痛みと感じていた。 (嗚呼、こんな群れに飲まれたくない)  足を早める。うねりは彼の行く向きと逆行し、濁流のように厄介になっていく。  彼はとうとう喘ぎをこぼす。口の端がぬらついた。  天を仰ぐと、今にも満ちようとしている月が、黒い夜の真ん中にあった。 (嗚呼、月よ)  彼は叫び出しそうになった。 (お前はなぜオレを狂わせる)  つまずき、膝を着く。  口からとめどなく、唾液が漏れていく。身体中で血がざわめく。 (オレを見るな、月よ──)  声にならない叫びが、軋みをあげる身体の中で響いた。 (群衆よ、聞け、オレは──)  悲鳴に似た告白は、誰にも届くはずなかった。 「ジョーヤ、入るよ」  合鍵を使ってドアを開けた月彦(ツキヒコ)は、そう言って玄関で靴を脱いだ。  なんてことのないマンションの1LDKだ。  台所の横を通り過ぎてすぐの、暗い寝室に入ると明かりを点けた。  玄関に黒い編み上げブーツがあったので、友がいるのはわかっている。  常夜(ジョーヤ)は寝台で仰向けになり、胸の上で指を組んで眠っていた。掛布も被っておらず、静物じみている。洋間に馴染まぬ藍色の着流し姿なのは、いつものことだ。 「ジョーヤ」  呼びかけるも、返事がない。  常夜の寝ている姿は、まるで死人のようだ。そう月彦は思っている。彼は黒縁眼鏡を押し上げて、まじまじと友人を見つめた。 「ジョーヤ、死んでないよね」 「生きているに決まってるだろ、ツキヒコ」  真一文字に結ばれていた常夜の薄い唇が動いた。まつげがわずかに震える。  目を開き、ゆっくりと常夜は起き上がった。  それだけで部屋の空気は、夜気が入り込んだかのように涼しくなった。  常夜は真っ暗な夜の色の黒髪をしており、白い顔は切れ長の目を持つ美貌だ。背丈も決して低くはなく、細身ながらも均整の取れた身体付きをしている。  涼しげな美貌であるとともに、どこにいても剣呑な獣の如き存在感を放って、人目を惹く。  最上(サイジョウ)常夜の外見は、そんなところだ。  以前月彦が彼を高校まで迎えに行ったとき、通りかかった他の生徒が、「抜身みたいなおっかない奴」と遠巻きから評していたこともある。  どういうことなのかと後で当人に聞いてみたら、近隣校の不良のボスに喧嘩を売られ打ち負かした、とのことだった。  月彦はそんな常夜に臆したりすることはなく、 「はい、今日の夕飯」  手にしていたコンビニ袋を気軽に差し出す。行きがけに買ってきたのだ。 「なんだ、おせっかいな奴だな」 「君は平然と食事を抜くからね」 「俺は最近あまり食欲がないんだよ」  消極的に言いつつも常夜は中身を探って、割り箸を割った。 「ちゃんとテーブルで食べな」 「わかったよ」  常夜はしぶしぶと弁当を持って、部屋の真ん中に据えられたテーブルに移動する。月彦は向かい合わせになって胡座をかいた。  テーブルと寝台と作り付けのクローゼット以外、何もない部屋だ。それを見回す度に月彦は、友人の生活が心配にもなるのだ。  食べる友人に、月彦は頃合いを見て切り出した。 「ここに来る途中、月見(ツキミ)橋の河川敷に警察が出動してた。野次馬も群がってたよ」  常夜の箸の動きが止まり、目線をこちらに合わせてくる。 「野次馬から訊いてみたんだけど……また例のだよ」 「今夜は満月じゃないぞ。」 「そう、それなんだ。今までは律儀にも満月の夜に起きていた。ところが今回は違う」 「被害者は?」 「わかんない。でもたぶん、」 「ふん」常夜の瞳が寝起きの曇った色から一転、鋭い光を宿した。 「明日、トウギに聞いてこよう」 「トウギさんとこ、ちゃんと学校終わってから行くんだぞ」  ちっ、と舌打ちが返ってくる。 「ほらやっぱり。サボって調査しようとか考えてたな」 「別にいいだろ」 「ちゃんと授業に出なきゃ駄目だよ。しっかり高校卒業するって、僕と約束しただろ」 「お前はバイトも大学も楽しんでるみたいだが、俺は高校なんてまったく楽しくないんだ」 「もう、君までそんなこと言うようになってどうすんだよ」  常夜はそれから弁当に集中した。平らげるまでそうかからない。食後に急須から淹れた緑茶を飲んで、寝台にまた仰向けになって目を閉じた。  月彦は寝台に寄りかかって座り、持ってきた趣味の雑誌をめくる。  互いに無言だが、それを良しとする、ゆるやかな時間が流れだす。 「あのさあジョーヤ」 「……なんだ」 「こういうふたりきりの時間、いいね」 「なんだよ急に」 「だって、一時期は考えられなかったよ」 「は相当に人付き合いが嫌いだったのか」 「そういう意味じゃないよ」  月彦は常夜のほうを向き、雑誌を閉じて、寝台に身を乗り上げた。 「僕たちのあいだには壁があったんだよ」 「壁……最上の家か?」 「まあ、色々とね」 「俺がいつ戻るかわからないぞ」 「君は戻ろうとなんてしないよ。僕にはわかる」  月彦は常夜に手を伸ばす。友人の雪のように白い頬を、ふざけて引っ張った。 「やめろ」常夜が振り払おうとする。 「あはは」  更けていく夜では、月が真円になる一歩手前である。  どこかの闇では狼が唸りをあげているのだ。それについて人々が噂し、あるいは怯えているはずであった。  だが今この瞬間の彼らには、関係が無いかのようだった。
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