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第3話 オオカミの影
常夜は、すぐには学校に行かなかった。
二度寝してしまった身体をなんとか起こすと、朝食も摂らずにバスでまず寄依町へ向かった。
中央区の片隅の、赤線跡である一画だ。猥雑と郷愁を現在まで引きずって、古びた引き出しの奥のようなほのぐらさがある町で、それを好きだと言う者もいる。
帯刀探偵事務所──そう便宜的に呼んでいる建物はそこにある。
到底探偵事務所とは思えない、二階建てのあばら家だ。ここの主である探偵の、生き方が反映されたものだった。
家主兼探偵の帯刀統義は、飴色の木目床の事務室で、着流し姿に学生鞄を担いだ訪問者を見るなり眉を顰めた。
統義の眼鏡の奥の目は、常に鋭い光を持っている。長い髪をひとまとめにして背が高く、スーツを着ていても虎あたりを思わせる屈強な肉体が察せられた。そこに清澄な気迫も併せ持っていて、常夜でも、見た目だけで圧倒される。
「学校はどうした。人狼は夜にならないと出ないぞ。それとも、親切にも学業そっちのけで新しい手がかりでも持ってきてくれたのか?」
統義の皮肉に、常夜は平然と返した。
「トウギ、俺にとって人狼騒ぎは学校よりも楽しいし、関心事なんだ」
「困ったものだ。私は君の単位や成績までは面倒を見ないからな」
「だって狼だぜ? 闘いたいに決まってるだろ」
常夜と月彦は学業に勤しむ傍ら、この帯刀探偵事務所に必要なときには呼ばれ、任に当たっている。
帯刀探偵事務所は一般的な探偵事務所ではない。今回の人狼騒ぎのような不可解な事件を、警察などからの依頼を受けて裏から──つまりは秘密裏に処理するのが、主な仕事だ。
統義は事務机の上にある書類を取った。
「昨夜のことだな」常夜の目的を察して、ため息をついた。
「ああ、教えてくれ」
「昨夜七時半頃、月見橋の河川敷に人狼は現れた。襲われたのは運動がてらに河川敷を走っていた若い男性だ。黒い、大きな犬のようなものが駆けてきて、飛びかかられたと証言している。軽傷を負った」
「ツキヒコが後で現場を通りかかった」
「らしいな、メールで聞いた。それで人狼は今回も脅かすだけだった」
「しかし満月ではない日に現れた」
「そうだ。今まで事件は満月の夜に起きていた。だから人狼騒ぎと呼ばれているんだ」
統義の目に、怜悧な光が灯る。
「ジョーヤ」
「ああわかってる──人狼は満月の夜に変身するのではない」
「そうだ。その話の大部分は映画や小説による創作だ。実際の伝承とは異なる」
「だがなぜかこの事件は満月の夜に起きている」
「まるで人狼として自己顕示しているかのようだが。それでも、どこか腑に落ちない」
「俺もだよ。やり方がぬるいね。俺が人狼だったらまずちゃんと喰い殺す。それが奴らの性なんだろ」
「そうだな。ためらい……そんなものを感じるな」
「ためらい? なんだそれは。とにかく、俺の異能で人狼を斬っていいんだろ?」
「ああ、頼む」
捕食されているかのようだ。月彦はそう思いながらも、身体中を巡る熱に嫌悪を覚えていた。
このまま、鉈宮を受け容れられない。それは当然であった。
そのとき、保健室の戸が開いて誰かが入ってきた。
鉈宮がはっと戸の方を向いて、隙を見せた。
月彦はありったけの力を奮って鉈宮を横に押し倒すと、その下からようやく抜け出る。
鉈宮は目を丸くして、月彦を見る。ただ呆然としているのではなく、傷ついたような表情だった。
(なんでそんな顔するんだよ)
月彦も苛立ちが顔に出る。泣きたいのはこっちの方なのだ。
「小牧ッ……」
鉈宮は顔を歪め、駆け出して保健室から出ていった。今入ってきた女子学生が、戸惑ったように見送る。
「ナタミヤ先輩……」
壁には上着が、枕元には弁当箱が、残されている。
しばし月彦は呆然と座り込んでいた。幾分冷静さを取り戻したが、鉈宮の熱を思い出して、もう一度肌を粟立たせた。同時に怒りも芽生えてくる。その芽を一旦潰して、彼は自身に落ち着くよう言い聞かせる。
(駄目だ。事情も聞かないで、ナタミヤ先輩を拒絶しては駄目だ)
それでもため息が溢れてくる。胸はまだ早い鼓動を鳴らしている。
月彦の視線が、壁に掛けられた上着にいった。
夕暮れが、都市を赤黒く蹂躙する。間もなく夜を引き連れてくるだろう。
常夜は統義のもとで用事を終えた後、学校には行った。半端に授業を受けて、そうして帰宅した。
夜になったら、人狼を探すつもりでいる。
マンションの自室に入ると、室内の明かりが点いている。驚くことはない。寝室に入ればやはり月彦がいる。
「バイトはどうした」常夜は学生鞄を床に放った。
「今日は休むことにしたよ」
「めずらしいな」
「お茶を淹れたんだ、飲むかい」
テーブルの上には急須と湯呑みがある。常夜は返事をして、テーブルに向かい合った。
「なにかあったのか?」一口飲んで、月彦に尋ねる。
「まず君の話が聞きたいな。トウギさんのところに行ったんだろ」
常夜は探偵事務所でのことを詳らかに話した。
「人狼の目的……なんだろうね」
「騒ぎを起こして自己顕示したいってなら、もう実現できていると思うぞ」
スマートフォンを取り出して、インターネットの画面を見せる。掲示板の人狼事件の話題のスレや、SNS上で錯綜する人狼情報だ。
「こういうの見るとげんなりするよ」月彦は眉の端を下げる。
「それで、お前のほうはどうしたんだ」
「それなんだけどさ……」
月彦がそろそろと、今日の大学の、保健室であった事件を打ち明けた。話を混乱させるような感情が入らないようにか、端的な事実だけが話された。
常夜は片眉を歪めた。
「お前、よく俺にそんな話できたな」
「え? 君が話せって言ったんじゃん」
「お前には怒ってない。ただなあ」
常夜の顔が月彦に近づく。端正で剣呑な美貌なのだ。月彦に戸惑いの色が出た。
「た、ただ?」
「お前、口づけなんてしたことないって、言ってたよな? 女とすらも」
「う、うん」ぎこちなく、月彦は頷く。
「その男はつまり、お前の初めてを無理矢理奪ったってことだ」
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