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第2話 未知なる熱
翌日、月彦はいつも通りふたり分の弁当を持って通学した。
大学敷地内の葉桜の道を歩いていると、鉈宮曜がベンチに座っていた。フードにファーが付いて、銀色のロゴが入った黒地の上着姿は目に留まりやすい。鉈宮のいつものスタイルだ。
月彦は大学に着いたら真っ先に彼を探すつもりでいたので、ちょうどよかった。
「ナタミヤ先輩」
鉈宮は仰ぐようにして、ベンチに身をそらし腰掛けている。
「なにやってんですか」
「……眠いんだよ」
「おっ、宣言どおりちゃんと徹夜で勉強したんですね」
「違う、興奮して眠れなかった」
姿勢を正した鉈宮の目が、わずかに赤い。
「くだらな」
月彦は鞄から弁当箱をひとつ取り出す。
「はい、今日の分」
「わりぃな、ありがと」
鉈宮は眠い顔をして受け取る。
「おせっかいな後輩がいて、オレは幸せもんだ。うちのばあちゃん並の安定感。さてと」
鉈宮は立ち上がる。伸びをして、後ろに撫で付けた黒髪を何度もかきあげ、まぶたをしばたたく。眠くて仕方がない、といった風だが、彼は元から眠たげな顔つきである。彫りの深い整った顔立ちだというのに、それで誤解をされることも度々であった。
「おい小牧、今夜付き合え」
「今日は無理ですよ」
「例の着流しの友人君と約束か?」
「違います、バイト」
「そうか、なら仕方がないな」
大きなあくびを語尾につけて鉈宮は、そのまま大学構内へさっさと去っていった。
本日最初の講義を月彦は真剣に受けていた。だが雑音が耳に入ってくる。すぐ傍に座している、ふたりの男子生徒の潜めた会話だ。
こういう輩はどこにもいるもので、普段は気にも留めないが、話している内容が人狼の噂では嫌でも気にしてしまう。
「昨日出たのどっかの橋のあたりだってな」
「本当に人狼なら普段は人間の姿で紛れてるってことだろ? うわおっかねー」
「気づかれてないだけで、案外もう誰か喰われてるんじゃね」
月彦は苛つきこそしなかったが、色々と知っている立場としては、勝手な噂は好きではない。
その講義を終えた直後、放送が鳴り、月彦に保健室に来るよう告げた。
「なんだろ」
すぐに向かう。
保健室に着くと保健医の先生から、鉈宮がそこの寝台で休んでいることや、彼が月彦をどうしてもというから呼んだと教えられた。
「先輩大丈夫ですか。入りますよ」
ひと声かけ、寝台を囲むカーテンを開ける。
目に入ったのは、寝台に横たわる鉈宮、枕元の弁当箱、壁に掛けられた鉈宮の上着の順だった。
「どうしたんですか、一体」
「昨日夜から食ってなくて、どうしても腹が空いて弁当一気食いしたら……具合悪くなった」
「あのねえ……」
月彦は呆れながら寝台脇の椅子に座る。保健医が私用で出てくると言って、部屋を去ったは同時だった。
「先生いなくなったのか、ちょうどいい」
鉈宮は重そうに半身を起こした。
「安静にしててください」
「なあ小牧、オレのこと好きか?」
「はい?」
月彦は少しだけ硬直した。唐突に問われた、好き、のニュアンスを頭の中に巡らせる。曖昧な質問の返答は出てこない。
そんな後輩にお構いなしに、鉈宮は続ける。
「オレはお前が好きだ」
「え、ええ僕も、好きですよ。大学入って右も左もわからない僕を、真っ先に導いてくれたのは先輩でしたから。おかげで、高校の時のような苦い思いもせずに済みました」
「どんなオレでも好きか?」
「どんなオレでもって…どういうことを指してるんですか?」
月彦は張り詰めた空気を感じていた。それは自分の勘違いだと信じたかった。鉈宮は至って普通といった面持ちで、今日の天気でも話すようにしているのだ。
(なんだろ、この感じ)
不穏でも緊張でもない、正体不明の違和感。月彦はつま先を揺らす。
「先輩、悩みがあるようでしたら僕よりまず校内カウンセラーの方に」
「お前じゃなきゃ駄目なんだ」
「なんでですか」
「小牧──いや、ツキヒコ」
鉈宮に下の名で呼ばれた。初めてのことだった。
手が伸びてきた。月彦は無防備なままだった。
襟首を掴まれ、強引に引き寄せられる。逃げるための反応は遅れた。
鉈宮の、真剣になった顔が近づいて──唇に噛みつかれたと思った。直後にそれは誤りだと悟る。
舌が、唇を割って入ってきた。鉈宮の舌。
重なったところが温かいのに、そこからもっと温かい感触が入ってきて、初めて知るものに月彦の肌は粟立った。
襟首を掴む手を振りほどこうとした。しかし鉈宮がこちらに身を乗り出して、一気に体重をかけてくる。月彦の腰は椅子から落ちる。鉈宮の長身が寝台をすべり、降りかかるように覆いかぶさってくる。椅子の倒れる音が響く。
床に身体を打ち付けて、月彦は痛みに悶えた。そのままあっさりと押さえつけられる。
「せ、先輩、なにする──」
抗議の声は塞がれた。今度は前髪を掴まれて、また深く、乱暴に舌が入ってきた。
息ができない。月彦も鉈宮の髪を引っ張っる。
唇が離れた。
「小牧」
鉈宮は喘ぎの中で、熱っぽく呼んだ。いつのまにか彼の瞳に、ぎらぎらした光が宿っている。欲に濡れた瞳だった。
月彦の背中を正体不明の痺れが這い降りる。
「もう抑えられないんだ。抑えられなくなっちまったんだ」
「ナタミヤ先輩ッ……!」
後輩にそれ以上言わせないまま、鉈宮はまた噛み付くように唇を塞いだ。
月彦は必死にもがいた。だが体格でも筋力でも、勝てそうになかった。鉈宮の力に驚かされた。
息の詰まる熱が溜まっていく。解き放たれたくて、月彦は足掻き続ける。
(なんでこんなことに)
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