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ラーメン屋を出た直後、パラパラと頭に当たるものがあり、青年は空を見上げた。
(夕立ち……という程でもないかな。まあ勘が当たって良かった)
青年はショルダーバッグから出した折り畳み傘を開き、そのまま歩きだした。
最寄りの地下鉄駅への入口が見えたと同時に、その先で信号待ちをしている、見覚えのある後ろ姿も目に入った。
青年は駅を素通りし、その少女の左後ろに立ち止まり、横顔を窺った。
(またもや勘が当たった。今日はなぜか会える気がしてたんだ)
青年は口元に笑みを浮かべて、少女の頭上に傘を差し出した。
「え! 誰…? って、おじさんじゃん!」
少女はキョトンとした表情を見せたあと、自分の顔を青年の顔に近づけた。
「おじさんか……俺、まだギリギリ二十代なんだけどな……まあいいや、これから帰り?」
「うん、でも珍しいね、そっちから話しかけてくるなんて。まあ図書館じゃ声は掛けずらいか」
少女は、そう言って爪先立ちのままニッコリ笑った。
「やっぱ可愛いな。最高の笑顔だ」
という青年の言葉は、素早く口に当てた自分の左手に遮られた。
「どしたの、おじさん? 気分でも悪いの? あ、この匂いって、また豚骨ラーメン食べたんでしょ。駄目だよ、あんなのばっか食べてたら自分が豚になるよ」
「いや……これは、そうじゃなくて」
「あ、あたしんち、すぐそこだから、楽になるまで休んでけば」
「ああ、ちょうど吐きそうになったとこなんだ。でも、いいのかなあ」
「大丈夫だよ、変な気遣わなくて、今一人だし。あ、青だよ」
少女は青年の手を引き寄せ、傘を掴むと腕組みをした。
「ほら、雨止んでるよ。早く行こ」
少女と並んで横断歩道を渡る青年の足取りは、スキップと見間違う程に軽やかだった。
(ああ、これからどうなるんだろう。図書館で偶然出会って話し掛けられてから、脈がありそうな気はしてたけど。ああ、その短い黒髪、小さな身体、栗色の瞳とツンと上を向いた唇を……)
青年が淫らな妄想に耽りそうになったとき、少女は一棟の二階建てアパートの前で足を止めた。
「ほら、ここだよ、ね、すぐでしょ。綺麗でしょう、建ってまだ一年なんだよ。ん、どしたの? まだ気持ち悪いの?」
「いや、大丈夫だけど……大丈夫なのか? これ」
青年は小雨に濡れた少女の制服姿を見て、ゴクリと唾を飲み込んだ。心なしか肌が透けているようにも見える。
「やっぱり、やっぱりその……今一人っていうのは、一人暮らしってこと?」
「ピンポーン、正解。ね、だから変な気遣わなくていいって。さあ、早く入って休もう、もう暗くなってきちゃったじゃん」
青年は少女に手を引かれるまま部屋に入った。
「けっこう広いんだね、一人暮らしの割には綺麗に整頓されてるし。その開き戸の先もリビングなの?」
青年は部屋を見渡しながら言った。中央にある洒落た木のテーブルの上には、女子中高生向けのファッション誌が積み重ねられている。少女はクローゼットの扉を開きながら質問に答えた。
「うん、そうだよ。でも今は“おもちゃ”に占領されちゃってる。ああ、早く上がって」
「おもちゃ?」
「うん、買ったばっかりの大事なおもちゃ」
「大事な……おもちゃ……」
「あー、赤くなってる! 変なこと考えたでしょう。あ、ちょっとだけ向こう見てて、これ着替えちゃうから」
「へ? 着替え……ここで」
「うん、すぐ着替えるから、そっち見てて」
少女の指差した先には立派な本棚があり、様々な本が並べられていた。
「こりゃすごい! やっぱ勉強熱心なんだね。お、こっちは……『アジアの食生活史』に『メソポタミアの文明史』に『西洋の拷問史』にオセアニアの……はあ!? ごうもん!?」
「あは、それ、おもしろそうだからつい買っちゃった。あれ、やっぱり引いちゃってる?」
「いや、いやいやいやいや。まあエグいなあとは思ったけど、そういう意外性もいいと思うよ。そ、そろそろ、そっちを向いてもいいかな?」
「あ、待って。じゃあさ、今どんな服に着替えたか、おじさん当ててみてよ」
「え、うーん、そうだなあ、そこに置いてある雑誌からするに、あんな感じかな。いや、あれも似合うな」
青年の頭の中で、少女は着せ替え人形のように、次から次へと衣装を交換していった。だが、どれもこれも似合っているように思った青年は、その中から適当なものを口にして、少女の方を向いた。
「ブー、不正解。答えは上下共に黒のスウェットでしたあ。がっかりした?」
「い、いや、そんなことないよ。シックな雰囲気が出てると思うし」
「うん、これなら何が掛かっても目立たないでしょ」
「そ、そうだね。いいと思う」
少女の服の選択理由について、何の疑念も抱かない程、青年は興奮状態にあった。
「あ、ちょっと待っててね。いい物を貰ったんだ」
少女は、そんな青年を横目に見ながらキッチンに行き、冷蔵庫から白い箱を取り出した。
「ああ、いいよ、そんなお構いなく……”おもちゃ“か……」
「ん? なんか言った?」
「い、いや、なんでもないよ……」
青年は少女の様子を伺いながら、隣室の方を向いた。
(見たい!)
「見たい?」
青年の口から、しゃっくりのような音が飛び出た。心を見透かされた気がして、青年はその場で固まり、ムチウチ症のような首の動きでキッチンの方を向いた。
「おじさん、さっきから向こうの部屋に何があるのか気になってるでしょう。もうバレバレだよ」
声の主は背を向けて、食台の上に置いた箱から何かを取り出している。
「い、いや、決して気になってたわけじゃ……」
「まあ、別にいいけどね。どうせすぐに見ることになるんだし」
少女がクルリと青年の方へ振り向いた。右手に持ったトレイには、均等に切り分けられた二つのホワイトケーキが載っており、左手にはステンレス製のナイフが握られていた。
少女がリビングに戻り、トレイをテーブルに置くと、隣室への引き戸を開いた。
「ジャーン! ジャジャジャジャーン! この牛さんは何に使うものでしょうか? ヒントはそこの本棚の中にありまあす」
青年の視線は、横向きに置いてある少女の“おもちゃ”に釘付けになった。
「これって“ファラリスの雄牛”だよな。古代ギリシアで使われた、中に人を入れて焼き殺す拷問器具……」
「ピンポーン、流石に専門分野だから分かるか」
「いや、別に専門てわけじゃないけど……なんでこんな物がある? いや待てよ、なんで専門分野だと思う? そういえば俺がしょっちゅう豚骨ラーメン食ってるのも知ってるみたいだったな、君には俺のことなんて殆ど喋っていないのに……」
少女は青年の質問には答えず、ナイフに付いたクリームをペロリと舐めてから隣室に入った。
「こっちは意外と狭いでしょ、だから、このでっかい”おもちゃ“専用なの」
「だっ、だから君は一体何なんだ? 何をするつもりだ!」
少女は軽々と“おもちゃ”に跳び乗って腰掛けると、両腕を上に伸ばし欠伸を一つした。
「ふぁ〜、ひんやりするなあ、ふう。あのねえあたし、おじさんのことはなんだって知ってるんだよ。こってりした食べ物が好きだったり、意外とホラーが好きだったり、あたしみたいなJKを前にして色々と我慢してたりとか」
「ひっ! なっ、何なんだそれ……冗談なんだろ? なんだその目は……そんな恐い目で見ないでくれよ!」
青年の体が小刻みに震える。少女は前傾姿勢になり、小鳥を狙う猫のように青年を見据えた。
「そういえば、おじさんさあ、このまえキングの『ミザリー』を読んでたでしょ? あの主人公の男の人さあ、どんな目に遭うんだっけ?」
少女は、ナイフの刃を青年に向けるとニッコリ笑った。
「ねえ、世界史の先生」
その瞬間、青年は脱兎のごとく玄関へと駆け出し、バッグを手に取ると、靴も履かずにドアを押し開けた。
(なんだ!? これは本当に何なんだ! とにかく逃げないと! 怖い、恐い、暗い! どこだ? 駅への道はどこだ! ええい、ままよ。今日は勘がよく当たるんだ。きっとこの路地を曲がれば…ハハハ、どうだ! 見覚えがあるぞ、あの横断歩道)
青年は、溺れた幼子の様に手を動かしながら青信号を渡りきると、植え込みの陰に隠れた。
車が一斉に走り出す。反対側の歩道を見ると、赤に変わった信号機の下に少女が立っていた。そして、ヘッドライトに照らされたその顔は、まだ笑っていた。
少女は一通り周囲を確認すると、そのまま後ろを向き、もと来た道を引き返していった。青年は、その後ろ姿を見送ると、這う這うの体で帰路に就いた。
(なんだよあの顔は! 全然可愛くねえよ! 何が最高だよ! 最狂の笑顔じゃねえかよ!)
道ですれ違う人、電車に乗り合わせた客、同じアパートの住人、誰もが青年に好奇の視線を向けた。
(へっへっへ、みんな見てやがる、惨めなもんだ。どうせなら笑え、みんな俺を笑ってるんだ。同僚も、生徒も、そして頭のおかしい小娘もな!)
息も絶え絶えに階段を昇り、目の前に自分の部屋があるのを認めると、青年は力を振り絞りドアを開け、上り框に倒れ込みボロボロに破れた靴下を脱ぎ捨てた。
静まり返った部屋の中には、再び降り出した雨の音だけが響いていた。
(やっぱり、このままだと豚になるかな)
青年が、ポッコリ膨らんだ腹を撫でたとき、至極当然なことに思い当たり、思わず声に出して叫んだ。
「あの話しぶりだと、どうやら俺の勤め先を知っている! ということは、住んでるとこだって知っている!」
ピンポーン、チャイムが鳴った。
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