前編

2/2
16人が本棚に入れています
本棚に追加
/4ページ
「あら坊や、誰? どうしたの?」  迷子になったことを告げる。 「そうなの」  娘は私の頬を撫でる。頭を撫でる。続いて身体を撫でる。絹のような手の、すべらかな感触。くすぐったくて私は笑う。 「さあ、行きましょう」  娘が私の手を引く。だが行き先は、離れの内だ。  私が違和感を告げると、娘は言った。 「美味しそう」  啜る音がした。見れば、娘の赤い唇から唾液が溢れている。  しまりのない顔が、さらにとろけたように恍惚となっている。  この娘のそんな顔は覚えているのに、どうして私は兄の顔を忘れてしまったのだろうか。 「あああ食べたい」  娘の静かな叫びが、私を芯まで震わせた。  何を、食べたいというのだろう。  あの頃の私には、そんなことわからなかった。ただ、旅の途中で会う人々から、私に向けられる何かがあることには気づいていた。  娘の目が光を失い貪欲な暗さを孕む。口からは牙もあらわになっていた。  彼女は唸って、覆いかぶさってきた。迫るひわ色が、香のむせ返る匂いを伴った闇へと転じる。  私は気を失ったのだ。  間違いなく、暗い夜道だった。  兄の匂いが濃く、私の鼻をついた。それで目が覚めた。兄の腕の中だった。兄は獣の如く息を切らして走っていた。 「お兄ちゃん」 「起きたか」  兄は立ち止まる。足音がべちゃべちゃとしている。泥の道にいるようだ。  私は離れの娘のことを話した。 「その事はもういいんだ」 「どうして」 「どうしてもだ」  兄は道の端に寄った。私を降ろすとコートで包む。 「ごめんな、布団で寝せてやれなくて」 「今日も結局ノジュク?」 「そうだ。さあ寝るんだ」  私は全身をコートに包み込まれるようにして横たわった。兄は、多少寝なくても大丈夫らしい。 「お話を聞かせてやろうか」 「うん」  あたりは土の匂いばかりして、本当に真っ暗だった。されど空には星が輝いていた。  いやもしかして、輝いていたのは兄の瞳だったのかもしれない。隘路にあっても挫けないその、美しさだったのかもしれない。  それすらも、私にははっきりとしない。兄の顔を思い出そうとすると結局、黒いコートの襟部分から上に靄がかかっているのだ。 「お兄ちゃんの子どもの頃の話がいい」 「いいだろう」  兄の昔語りは、今思えば重要な資料となり得たかもしれないのに。それすらも、私の記憶は取りこぼしている。  なぜなのか。  もしかしたら、兄が食べてしまったのかもしれない。私の記憶を。罪の証となり得るそれを。なんらかの方法で、屠ったのかもしれない。
/4ページ

最初のコメントを投稿しよう!