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「あら坊や、誰? どうしたの?」
迷子になったことを告げる。
「そうなの」
娘は私の頬を撫でる。頭を撫でる。続いて身体を撫でる。絹のような手の、すべらかな感触。くすぐったくて私は笑う。
「さあ、行きましょう」
娘が私の手を引く。だが行き先は、離れの内だ。
私が違和感を告げると、娘は言った。
「美味しそう」
啜る音がした。見れば、娘の赤い唇から唾液が溢れている。
しまりのない顔が、さらにとろけたように恍惚となっている。
この娘のそんな顔は覚えているのに、どうして私は兄の顔を忘れてしまったのだろうか。
「あああ食べたい」
娘の静かな叫びが、私を芯まで震わせた。
何を、食べたいというのだろう。
あの頃の私には、そんなことわからなかった。ただ、旅の途中で会う人々から、私に向けられる何かがあることには気づいていた。
娘の目が光を失い貪欲な暗さを孕む。口からは牙もあらわになっていた。
彼女は唸って、覆いかぶさってきた。迫るひわ色が、香のむせ返る匂いを伴った闇へと転じる。
私は気を失ったのだ。
間違いなく、暗い夜道だった。
兄の匂いが濃く、私の鼻をついた。それで目が覚めた。兄の腕の中だった。兄は獣の如く息を切らして走っていた。
「お兄ちゃん」
「起きたか」
兄は立ち止まる。足音がべちゃべちゃとしている。泥の道にいるようだ。
私は離れの娘のことを話した。
「その事はもういいんだ」
「どうして」
「どうしてもだ」
兄は道の端に寄った。私を降ろすとコートで包む。
「ごめんな、布団で寝せてやれなくて」
「今日も結局ノジュク?」
「そうだ。さあ寝るんだ」
私は全身をコートに包み込まれるようにして横たわった。兄は、多少寝なくても大丈夫らしい。
「お話を聞かせてやろうか」
「うん」
あたりは土の匂いばかりして、本当に真っ暗だった。されど空には星が輝いていた。
いやもしかして、輝いていたのは兄の瞳だったのかもしれない。隘路にあっても挫けないその、美しさだったのかもしれない。
それすらも、私にははっきりとしない。兄の顔を思い出そうとすると結局、黒いコートの襟部分から上に靄がかかっているのだ。
「お兄ちゃんの子どもの頃の話がいい」
「いいだろう」
兄の昔語りは、今思えば重要な資料となり得たかもしれないのに。それすらも、私の記憶は取りこぼしている。
なぜなのか。
もしかしたら、兄が食べてしまったのかもしれない。私の記憶を。罪の証となり得るそれを。なんらかの方法で、屠ったのかもしれない。
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