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前編
私は、たぶん五歳であった。
私は、歩いていた。泥の道を、微妙に合わないスニーカーで歩いていた。
私は、紺絣の着物姿だったと思う。なんでそんなものを着ていたのかは、今となってもよくわからない。
私が追いかける長身の兄は、黒革のコート姿だ。兄については、その点ははっきりと覚えている。
それと、あたたかい独特の匂いのする人だったことも。
肝心の顔を、今はもう思い出せない。
記憶は切れ切れとなり、郷愁という糸によって甘美にも縫い直される。
私は思い出そうとする。あの旅の記憶を。もうどこまでが本当なのかわからない、曖昧な記憶のなかを潜っていく。ぬかるみを進むように苦しく覚束ない行為に、目を閉じる。
頭が痛む。閉じたまぶたの、赤黒い闇のなかに、光が見えてきた。
確か、祭りがあった。
提灯の赤い火が連なり、ぼんやりとした明かりが、涙の視界の中でまるくなっていた。
私はなぜか迷子だった。賑々しい祭りのなかで、ただひとりはぐれた悲しみに暮れていた。
兄がいつの間にかいなくなっていたのだ。黒いコートの姿は、闇に溶けてしまった。
「お兄ちゃん……」
私は涙声になって兄を呼んだ。
行き交う人々は皆、獣の面を被っている。さすがにそれはおかしい。しかし私の記憶ではそうなっている。心細さと恐怖が生んだ、幻想だったのだろうか。
黒い姿がどこからともなく現れ、私を包み込んだ。兄だ。
「ナギ、ごめんな、やっぱり寂しかったな」
泣きじゃくる私の頭を撫でる兄。どこにいってたの、と私は問う。
「ごめんな」
兄は答えない。
「飴を買ってやるよ」
すぐに傍のりんご飴屋に行き、飴が私に手渡される。
「きれいな色だろ」
耳元でささやく兄は、息を切らしている。
飴は赤く、きらきらと輝いていた。
「まるで心の臓のようだ」
兄が口の端をつりあげ笑った、気がした。
祭りから離れて、私たちは手をつなぎどこかへ向かった。
たどり着いたのは一軒の大きな屋敷だ。夜だったから、その全容はよくわからなかった。でも多分、黒板塀のある家だったと思う。
「なんだい、久しぶりに来たと思ったら、ニンゲンなんか連れて」
玄関先で、私たちを迎えた黒紫の着物の女はそう言った。
ニンゲン、というのが、私のことを指しているのだと、幼いながら察した。それで、正体のよくわからない、居心地の悪い気分になったのだ。足をもぞもぞと動かして、兄にしがみつく。
「すみません」
しおれたような兄の声に、私は不安に駆られる。
「まあいいよ、お上がんなさい」
「ありがとうございます」
今日はここに泊まるの? そう私が尋ねると、兄は頷いた。
囲炉裏のある畳張りの部屋に私たちは通された。間もなく私の分だけの夕食が出てきた。白飯と、きのこの味噌汁だ。空腹だった私はそれで腹を満たした。
「お兄ちゃんは食べないの?」
「俺は後で食べるよ」
私が夕食を終えると、兄は大人しく待ってるように言って、どこかへ行ってしまった。
祭りではぐれたばかりの私は、その約束を守らなかった。こっそりと後をつける。
数回角を曲がって、厨房らしき場所に入った。
なにか断続的な、強い音がする。
私は物陰から顔だけを少し出した。
ぎらりと、包丁の刃が光った。あの黒紫の着物の女の、手のなかで光っていたのだ。
兄の後ろ姿が見える。女と何か話している。
確か、こんな会話だったと思う。
「……それで、結局拾ったのかい」
「はい……手放せなくて」
「ちゃんと自分で処理するんだろうね?」
「たぶん」
「たぶん?」
だん、とまた強い音がした。女が包丁を、まな板に叩きつける音だった。何を切ってるのかまではわからない。
「甘いこと言ってんじゃないよ」
「わかってます、だけど」
「だけど?」
「いえ、なんでもありません」
「とりあえず部屋を用意したから、朝まで大人しくしてな。くれぐれも、うちのにはあの子どもを見せるんじゃないよ」
私はその場から逃げた。縁側に出たところで、元の部屋へ行く道がわからなくなったと気づいた。
広い庭がある。石灯籠にかすかな光が灯っている。石畳の先に、明かりの付いた離れがあった。私はそこへ向かった。元の部屋へ帰る道を訊くつもりだった。
離れの戸を叩く。
「はぁい、お母様?」
髪の長い娘が出てきた。ひわ色の着物をだいぶ着崩していて、白い胸元が闇の中にほの明るんでいた。目は切れ長だが、どこか痴れたような、しまりのない表情をしている。しかし美しいことには変わりない。
私はなぜか、この女を知っているような気持ちになった。
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