前編

1/2
16人が本棚に入れています
本棚に追加
/4ページ

前編

 私は、たぶん五歳であった。  私は、歩いていた。泥の道を、微妙に合わないスニーカーで歩いていた。  私は、紺絣の着物姿だったと思う。なんでそんなものを着ていたのかは、今となってもよくわからない。  私が追いかける長身の兄は、黒革のコート姿だ。兄については、その点ははっきりと覚えている。  それと、あたたかい独特の匂いのする人だったことも。  肝心の顔を、今はもう思い出せない。  記憶は切れ切れとなり、郷愁という糸によって甘美にも縫い直される。  私は思い出そうとする。あの旅の記憶を。もうどこまでが本当なのかわからない、曖昧な記憶のなかを潜っていく。ぬかるみを進むように苦しく覚束ない行為に、目を閉じる。  頭が痛む。閉じたまぶたの、赤黒い闇のなかに、光が見えてきた。  確か、祭りがあった。  提灯の赤い火が連なり、ぼんやりとした明かりが、涙の視界の中でまるくなっていた。  私はなぜか迷子だった。賑々しい祭りのなかで、ただひとりはぐれた悲しみに暮れていた。  兄がいつの間にかいなくなっていたのだ。黒いコートの姿は、闇に溶けてしまった。 「お兄ちゃん……」  私は涙声になって兄を呼んだ。  行き交う人々は皆、獣の面を被っている。さすがにそれはおかしい。しかし私の記憶ではそうなっている。心細さと恐怖が生んだ、幻想だったのだろうか。  黒い姿がどこからともなく現れ、私を包み込んだ。兄だ。 「ナギ、ごめんな、やっぱり寂しかったな」  泣きじゃくる私の頭を撫でる兄。どこにいってたの、と私は問う。 「ごめんな」  兄は答えない。 「飴を買ってやるよ」  すぐに傍のりんご飴屋に行き、飴が私に手渡される。 「きれいな色だろ」  耳元でささやく兄は、息を切らしている。  飴は赤く、きらきらと輝いていた。 「まるで心の臓のようだ」  兄が口の端をつりあげ笑った、気がした。  祭りから離れて、私たちは手をつなぎどこかへ向かった。  たどり着いたのは一軒の大きな屋敷だ。夜だったから、その全容はよくわからなかった。でも多分、黒板塀のある家だったと思う。 「なんだい、久しぶりに来たと思ったら、ニンゲンなんか連れて」  玄関先で、私たちを迎えた黒紫の着物の女はそう言った。  ニンゲン、というのが、私のことを指しているのだと、幼いながら察した。それで、正体のよくわからない、居心地の悪い気分になったのだ。足をもぞもぞと動かして、兄にしがみつく。 「すみません」  しおれたような兄の声に、私は不安に駆られる。 「まあいいよ、お上がんなさい」 「ありがとうございます」  今日はここに泊まるの? そう私が尋ねると、兄は頷いた。  囲炉裏のある畳張りの部屋に私たちは通された。間もなく私の分だけの夕食が出てきた。白飯と、きのこの味噌汁だ。空腹だった私はそれで腹を満たした。 「お兄ちゃんは食べないの?」 「俺は後で食べるよ」  私が夕食を終えると、兄は大人しく待ってるように言って、どこかへ行ってしまった。  祭りではぐれたばかりの私は、その約束を守らなかった。こっそりと後をつける。  数回角を曲がって、厨房らしき場所に入った。  なにか断続的な、強い音がする。  私は物陰から顔だけを少し出した。  ぎらりと、包丁の刃が光った。あの黒紫の着物の女の、手のなかで光っていたのだ。  兄の後ろ姿が見える。女と何か話している。  確か、こんな会話だったと思う。 「……それで、結局拾ったのかい」 「はい……手放せなくて」 「ちゃんと自分で処理するんだろうね?」 「たぶん」 「たぶん?」  だん、とまた強い音がした。女が包丁を、まな板に叩きつける音だった。何を切ってるのかまではわからない。 「甘いこと言ってんじゃないよ」 「わかってます、だけど」 「だけど?」 「いえ、なんでもありません」 「とりあえず部屋を用意したから、朝まで大人しくしてな。くれぐれも、うちのにはあの子どもを見せるんじゃないよ」  私はその場から逃げた。縁側に出たところで、元の部屋へ行く道がわからなくなったと気づいた。  広い庭がある。石灯籠にかすかな光が灯っている。石畳の先に、明かりの付いた離れがあった。私はそこへ向かった。元の部屋へ帰る道を訊くつもりだった。  離れの戸を叩く。 「はぁい、お母様?」  髪の長い娘が出てきた。ひわ色の着物をだいぶ着崩していて、白い胸元が闇の中にほの明るんでいた。目は切れ長だが、どこか痴れたような、しまりのない表情をしている。しかし美しいことには変わりない。  私はなぜか、この女を知っているような気持ちになった。
/4ページ

最初のコメントを投稿しよう!