タクシードライバー幻想奇譚

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「連れでかれてぐねぇよ、ハル」 そう叫ぶ叔父の口の中は、真っ赤だった。垂れる(よだれ)すら赤く見えるほどに。抗癌剤の副作用で口腔内粘膜下の毛細血管が弱くなり内出血を起こす事もあるそうだし、そもそも病の進行によるものかもしれない。だが僕にはもう限界だった。 ナースコールで駆けつけた医師と看護師により、鎮静剤と痛み止めの麻薬を注射された叔父は、すぐにぐったりと大人しくなった。そしてそれが僕が見た、生きた叔父の最後の姿になった。数日後、いまわの(きわ)には家族も親族も僕も、誰も間に合わなかった。 お世話になった医師によれば、叔父の錯乱はあの後も悪化の一途を辿り、最後には何故か「タクシー呼んでくれ、行かなきゃ」と繰り返していたらしい。何処へ行くつもりだったのだろうか? ともあれこれが、僕の叔父に起こった事の顛末である。 幸いにして、と言うべきか、僕には今のところ、叔父が言っていたような白い影は見えていないし、近しい人達からもそんな話は聞かない。「正気を失った人間が語った話」が実話であるかどうかは分からないし、僕個人が思うには恐らく実話ではない。 「叔父に起こった」と書いたが、実は何も起こっていない、全ては一人のタクシードライバーが都会の過度なストレスによって抱いてしまった、無意味な幻想に過ぎないのだと思う。今はそう思っている。 そう思わなければーー、叔父も「連れていかれた」事になってしまうから。
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