タクシードライバー幻想奇譚

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「ん? (あん)ちゃん俺ん家知らないか?」 決して挑発的な物言いではなく、まるで「俺の家を知らない奴が、この東京にいるのか?」とでも言いたいような、心底驚いた反応に見えて、叔父は慌てた。 もしかしてこの男の住処(すみか)はタクシー業界では常識で、自分だけがそれを知らなかったのか? 男の素頓狂(すっとんきょう)な口調が、まるでタクシー運転手失格の烙印(らくいん)()すかのように叔父の心に突き刺さる。 「いや、あの、すみません、有名人の方でしたか?」 恥ずかしげに縮こまり、ミラー越しの愛想笑いを引きつらせながら詫びた。後はもう殴られても罵られてもなすがまま、そうしてそれ以上の激しい怒りを買わないようにするしかない。 だが男はまたしても想定外の言葉を繰り出す。 「はは、有名人ときたか。運ちゃん、お国は何処だい?」 あまりに取り乱していた為、津軽弁の訛りを丸出しで謝っていた事に、叔父は男の言葉で気付かされ、更に畏縮した。 「あの…、青森の、津軽の方です」 「津軽か、お国訛りがいいねえ」 男はしみじみと言い、ニカッと白い歯を見せて笑った。 「よし、じゃあまずは大田区方面に向かってくれよ。近くまで来たら、そこから細かく教えるから」 「はい、分かりました」 叔父はようやくホッと胸を()で下ろした。風貌こそ(いか)ついが、どうやらこの男は理由もなく無体な振る舞いをするような人間ではないようだ。 しかも新宿区から大田区までは到着場所にもよるが、小一時間ほどの距離、結構な上客である。 (近藤勇だけんたな) 近藤勇みたいな人だなーー。 江戸っ子の粋を持ちながらもどこか土の匂いがし、弱者への素朴な優しさを持った親分肌の好漢。そんなオーラが、昔読んだ小説に登場した新撰組の局長のイメージを男に醸していた。 移動中も、よそよそしくも馴れ馴れしくもない程よい会話量と、客でありながら気配りのきいた振る舞いに、叔父は本当に都会の洗練された紳士というのはこういうものかと感心し、初対面ながらすっかりこの男に魅了されたという。
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