陽炎

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陽炎

 自転車をこいでいた。  高校入学と同時に買い替えたシルバーの車体が、柔い日差しを反射する。あまり乗っていないから、傷も泥もついていない。 「ああちょっと、きみ」   公道はずいぶんとすいている。きっとみんな、こんな町からは出て行ってしまったのだろう。そうにちがいない。暇を持て余した駐在が、通りがかった私を呼び止めた。 「後ろにいるの、友達?」  小太りで、まだ五月なのに晩夏のような汗をかいた中年だった。私は首をすこしだけひねって、視線を背後の荷台へ向ける。きらりと光を反射して、フラフラ揺れるピアスが、視界の端にちらついた。 「だめだよお、二人乗りは」  本気で怒っているわけではないらしい駐在は、それから二三注意をして、私を解放した。面倒なことにならなくてよかった。これ以上事態が発展しないよう、素直に軽く頭を下げて、自転車を押しながら、家への道を往く。 「二人乗りはだめなんですって、先輩」  そして、語り掛ける。返事は当然、帰ってこない。そもそも答える人物などいない。  後ろの荷台。友達? と指をさされた場所には最初から、母に頼まれた夕飯の材料が乗っている。  ◆  すこしだけ退屈で、すこしだけ寂しかった。  だから私は、先輩を作ることにした。  水三十五リットル、炭素二十キログラム、アンモニア四リットル、リン八百グラム、塩分二百五十グラム……なんて、そんなにたいしたことじゃあない。 ただ自分の意識下に、先輩を呼び出すだけ。そこにはいない先輩を、まるですぐそばにいるかのように扱う。たったそれだけだ。  例えば窓辺で本を読んでいるとき、風が吹いてページがめくれれば「勝手にページを進めないでください、先輩」と注意したし、部屋の温度が気になれば「寒くないですか、先輩」なんて語り掛けたりする。そうとうイカれたことをしている、という自覚はあったが、なにぶん退屈だったのだ。十代の無意味な行動のすべては、退屈だったに集約される。  もちろんこんな行為、誰かに見られたらそれだけでもうこの街を歩けなくなってしまうだろうという自覚はあったし、ずっとつづけるつもりはなかった。本当にすこしだけ気を紛らわして、満足したらやめるつもりだった。そう、だった。だったのだ。過去形は、やめられなかったという現実を表している。  そこにはいない誰かに話しかける。そんなことを、何日かつづけたある日、とうとう先輩が視界に現れるようになった。といっても、目の前に具体的な象を結んで「やあ後輩」なんて話しかけてくることはない。そいつは絶妙なタイミングで私の焦点から外れ、視界の端をちらついたり、数秒前まで見ていた場所に現れたりする。いつものように着崩した制服で、主任教師に三時間説教されても、反省文を五十枚書かされても決して外さなかった、アメリカンクラッカーのようなピアスをフラフラさせて一瞬だけ、私の意識に介入する。だいたい、こんなつまらな平凡な田舎の風景に、あいつのピアスは目立ちすぎるのだ。おかげさまで、そうやってたったコンマ数秒でも視界に見切れるだけで、強烈な印象を植え付けられてしまう。  最初は疲れているだけかと思っていた。現れるのは、本当に一瞬なのだ。しかも姿を見せるだけで、直接コンタクトをとってこない。数日で出てきたのだから、数日で消えるだろう。なんて、傷跡にできたかさぶたを見守るような、楽観的な考えで、私は先輩を放置していた。  そうしたらそのうち、私の視界以外にも、先輩が現れるようになった。その一例が、先ほどの駐在だ。飲食店にはいればコップが二つ運ばれてくるし、映画を見ようとすればお連れ様はと人数をたずねられる。気に食わないのは、私の視界には一瞬ちらっと見切れるだけなのに、それ以外の第三者の視点には、あいつの姿ががっつり映っているらしい、というところである。  名前も知らないような奴の前に現れるより、何かこの私にいうべきことがあるだろう。こんなに退屈な、この私に。  直接話せないから、文句の一つも言ってやれない。試しに置手紙でもしてみようかと思ったが、そもそも読んだかどうかを確認する術がない。かといってそれ以外に、こちらからとれるコンタクトもない。  きっと、先輩に悪意はないのだ。  だってもともとは、私が作った先輩だ。私の中にいる先輩は、決して悪人ではない。むしろ人好かれするほうだろう。いつもニコニコしているし。自分の前では、だが。  だからきっと、放っておいても害にはならないだろう。確証はないのに、確信がある。この、雨上がりに見える陽炎のような先輩は、何もしてこない。私の弊害にならない。それが少し、困る。  何もしてこないから、こちらも何もできない。  ただ、声をかけるだけ。水が二つ運ばれてきたら飲むかどうかを聞くし、映画だって見るかどうか聞く。もちろん返事はない。姿も声も、どこにはない。  すこし退屈で、すこし寂しかった。  だから先輩を作ったのに、なんだかもっと寂しくなった。  ◆  自転車を車庫にいれ、荷物を母親に渡すと、自室に戻る以外にやることがなかった。しんとした部屋なのに、もうすでに誰かがそこへいる気がする。実際、いるのだろう。ただいつものように、私の目の前に現れないだけで。  この気持ちをどうしてくれよう。どう処理したらいいだろう。特徴的なピアスは依然視界の端でフラフラと揺れている。たしかに奴はそこにいる。でもなにもない。形も声も温度もない。ただ、残像のような。私の思い出の中の姿を、そのまま反映したかのような像だけが、そこにはある。  なんだかすこしむなしくなって、私は出かける前に放り投げたままの形を保っていたブレザーを羽織った。五月だというのにヒグラシがないている。死へ向かう地球は、どこもかしこも揺らめくほど暑い。  来た道を戻るように、足音を重ねる。まっすぐ。まっすぐ。右。しばらくまっすぐ。階段。左。そしてずっとまっすぐ。もう三年間も歩いた道だ。目を瞑ってだって歩ける気がする。  生徒がいない学校は、恐ろしいほどに静まり返っていた。部活動さえもやっていないのだろうか。正門が開いていなかったので、教職員用の入り口に回り、忘れ物をした、とか適当な理由をつけて校内へ入る。来客用のスリッパはすこし大きくて、歩くたびにカパカパと音がした。  二階だ。たしか。そこがあいつの教室だった。二階の一番隅っこの教室。記憶を頼りに、ふだんは立ち寄らない階を散策する。目的の部屋について、引き戸をガラガラ開けると、どこにでもあるような光景が広がった。一応列にはなっているが、すこしだけ乱れた机。黒板には、ピンク色のチョークで誰かの落書き。ひきっぱなしの椅子。差し込む茜が机上を塗って、教室全体を同じ色に染めている。  ああたぶん、ここだ。  右から四列目の真ん中。きっとこの席だ。  スリッパを鳴らしながら、ゆっくりと近付いていく。特例だから急ごしらえで、あまり使われていないから新しく見える机。あいつのために用意されたのに、まさかたった数か月で放置されるなんて、この机も思わなかっただろう。  控えめに椅子へ触れ、音を立てて後ろへひく。視界の端には何もない。教室の窓には、なんとも情けない顔をした私が映っている。  腰を下ろすと、教室が見渡せた。この位置、黒板見づらいだろうな。なんてことを考えながら、机上に指を滑らせる。落書き一つない。  あいつは、ここに座ったのだ。ここに座って授業を受けていたのだ。  そう思い、少しでもあいつの面影を探そうとして、ため息を吐く。この数日間、私はなにをしているのだろう。  ◆  先輩は、私が二年生の秋に突然現れた。  存在は知っていたのだ。噂だったから、何が本当かはわからないが、素行が不良で留年して、私達と同じ学年の先輩がいる。でも決して学校には来ない。ただ、使われることのない机だけが、教室にぽつんと置かれている。 「ここ、あいてる?」  最初はそんな言葉だった。図書室で一人本を読んでいた私にそう言って、先輩は私の視界に入ってきた。手には児童向けの昆虫図鑑を持っていた。ああ、関わったらまずい人だろうな。直感でそう思った。 「ひとりで読書って退屈じゃあない?」 「…読書は一人でするものですよ」 「そうかな? 二人でしてみたらあんがい楽しいかもよ」 「はあ。文庫本を仲良く読み合いっこするってことですか」 「いいや。ギラファノコギリクワガタって知ってる?」  そう言うと先輩は、手に持っていた昆虫図鑑を自慢気に机上へ広げた。めっちゃかっこいいんだよ。実物大だろうか。大きな虫たちの写真を指差しながら、先輩は一人で楽しそうだった。  それから先輩は、時々私の前に現れては、読書の邪魔をして、邪魔をしながらとりとめもない話題を振ってきた。先輩は自分のことを先輩だといい、名前は名乗らなかった。有名人なので、私は先輩の名前をしっていたが、先輩としか呼ばなかった。  先輩と過ごす時間は、形容詞しがたいものだった。友達といるとき、先生と話しているとき、親と話しているとき。どれにも当てはまらない。最初はただの危ない人だと思っていた先輩は意外と博識で、私が知らないようなことを教えてくれた。図書室でそんな先輩の話をきいていると、なんだか少し胸が弾んで、そう、どきどきする。目の前に広がる未知が愛おしくて仕方がない。もっと知りたい。もっと。いつの間にか、そんなことを思うようになった。  ピアスは私があげたものだった。横顔をふと見つめたとき、なんとなく、似合いそうだと思ったのだ。いつもいろいろなことを教えてくれるから、そのお礼。そんな口実で用意をした。でも肝心の私は耳たぶに穴が空いていないから、どれがいいかなんてわからなくて、だいぶ個性的なものを選んでしまった。それでも先輩はありがとうと笑って、図書館へやってきた教師にどれだけ怒られても、そのピアスを外そうとしなかった。  最後の日だった。三月の終わり、学年が変わる頃。図書室に先輩が来なかった。すこし残念に思って…でもそんな日もあるかもしれない、と思って学校の駐輪所へ行くと、そこに先輩が立っていた。 「ちょっと、のせてくれないかな」  先輩はそう言って、にこりと微笑んだ。いつものピアスがフラフラと揺れた。図書室以外で先輩と話したのは、これが初めてだった。 「大丈夫ですかね」 「なにが?」 「スカート」 「…はは、平気だよ」  ほら、いこう。私の自転車がどれかなんてわからないくせに、先輩は私の手を引いた。  学年が変わったら、教室に来ますか。  そんなことを聞きたかった。何となく、言ってはいけないような気がしていたけれど、口にしたかったのだ。高校入学と同時に買い替えたシルバーの車体が、柔い日差しを反射する。そういえば自転車通学に変えたの、先輩と話すようになってからなんですよ。何かの口実にならないかと思って。  言えもしない言葉を殺し、二人で自転車に乗って、やってきたのは近くの公園だった。小高い丘の上にあって、昼間は子供で溢れかえっているけれど、その日はなぜだか人がいなかった。 「もうすぐ、三年生になるんだね」  私を見ずに、先輩が言った。長いまつげに縁取られた瞳は、茜色に染まるすべり台をじっと見つめていた。 「先輩もなりますよ」  そんな横顔を見つめながら、私が言った。先輩はただ、笑うだけだった。 「ギラファノコギリクワガタ、日本にもいるんですか」 「いないよ」 「いてもいいのに」 「生息地が違うからね」 「じゃあ連れてきて繁殖させましょう」 「君はここに新たなマングースやブラックバスを生む気かい」 「たくさん増えればもう外来種じゃなくなりますから」 「そういうもんかな」 「そういうものですよ」 「絶対に違…まあ、そうだね。誰にも迷惑がかからないなら、住処がすこし広がるくらい、いいのかもしれない」 「ねえ、先輩」   学年が変わったら、教室に来ますか。  そう言おうとした。何度も言うつもりだった。結局一度も言えなかった。   気がついたら、先輩の顔が目の前にあった。一本一本がするりと伸びたまつげ、ピンク色の頬、真珠みたいなまぶた。ああ。どうして同じ性別なのに、こんなにも差があるのだろう。  きっと先輩は察していたのだ。私が言おうとしたこと、伝えようとしたことを。だからそうなる前に、それを消した。もっと大きな衝撃で、ぜんぶ有耶無耶にしてしまおうとした。  最後の日だった。夕焼けに照らされた微笑みは、虹彩に焼き付いて離れない。  次の日から、先輩はいなくなった。机だけを残して、今度こそその姿を完全に消してしまったのだ。  ◆  すこしだけ退屈で、すこしだけ寂しかった。  寂しかったのだ。五月だ連休だと浮かれる世間とは裏腹に、私の心は冷たく冷えていて、目の前のすべてを許せそうになかった。このイライラはなんなのだろう、と感情に目を向けたとき、初めてそれが、寂寥である事に気がついた。  そうか、私は寂しいのか。  自覚をした後、その元凶が傍にいないことにまたどうしようもない感情が募った。  だからもう、半ばやけくそで。誰もいない隣へ向かって「なんでいなくなっちゃったんですか、先輩」と声をかけたのだ。そうだ。それが最初。そうしたら存外気がまぎれて、やめられなくなった。そのうちに幻覚まで見始めたから、とうとう来るところまで来たかと思ったが、そんなお遊戯がどういうわけか他人の目にも見え始めたから、もはや自分だけの手には負えない事象に発展したのだと理解した。  そして、また同じことを繰り返した。それでもなお、自分の目にだけ先輩が映らないことが寂しくて、こんなところまできた。  ああまずい。私は自分で思っていたよりもあいつのことが好きだった。個人的には処理しきれないような、どうしようもない気持ちを生んでしまった。わだかまりは、あいつが来てくれなければ解消されない。でももう、会えないのだろう。きっと、ずっと、一生。  言わなければよかった。知らないふりをしていればよかった。あの日、なんの気まぐれか、それともあの頃から気持を固めていて、最後のお別れをするつもりだったのか。学校へきた先輩が図書室でみつけた、自分にとって一番害のない性別で、悪意のない存在。優しい彼女が望むまま、友だちが少なくて、人間関係が狭くて、先輩の噂なんてしらない。そんな文学少女でいればよかった。  とても退屈でとても寂しくて、とても会いたくてとても好きだった。そう思っても未明。消失は未だ、視界の端にいる。
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