第三話 全力疾走は危険! (その1)

1/1
60人が本棚に入れています
本棚に追加
/107ページ

第三話 全力疾走は危険! (その1)

 自転車の人影は、歩道上を人波を縫うように走り始めた。子供用の自転車とは思えないほどのあざやかな走りだった。スタートダッシュの時点ではすぐに追いつきそうな距離だったが、自転車の思いのほか軽快な走りにたちまち離されていった。全速力で走っても自転車との距離は一向に縮まらなかった。  他の通行人の目にはこの捕り物はいったいどう映っているのだろう。かたや、何かから全速力で逃げている子供。もう一方は女児向けアニメのステッキを手に全速力で追いかけている二十代後半男性。警官が通りかかったら取り押さえられるのは間違いなく自分だろう。  自転車は商店やビルの並ぶ広い通りから、細い側道へとハンドルを切った。見失う不安に襲われながら後に続く。曲がった先は空地の目立つ住宅地だった。この中のどれか細い路地に逃げ込まれたら万事休すだ。  息が切れ始めた。両肺が酸素を求めて喘いでいる。心臓が喉元までせりあがってくる。さすがに限界だ。  畜生、なんで、おれの、なまえを。  自転車は十メートルほど先の丁字路に一直線に向かっている。どっちだ。右か、左か。  視界が霞み、足がもつれ始めた。どうやら捕り物も終わりらしい。自転車は丁字路を右折した。やっとの思いで曲がり角までたどり着いた時、僕の目に予想外の光景が飛び込んできた。  数メートル先で、自転車が横を向いて停車していた。どうやら行き止まりらしかった。  人影がこちらを向いた。挑むような眼差しが僕に向けられていた。  僕は眼差しに力を込めた。「もう逃げられないぞ」という威嚇のつもりだった。  視線が空中でぶつかった。子供のことだ、観念して自転車から降りてくるに違いないと思った。事態が予想外の展開を見せたのはその直後だった。  あろうことか、人影は前輪の向きを変え、僕のほうに勢いよくペダルを踏み込んできたのだった。強行突破か。反射的に、体がひるんだ。いくら子供用自転車でも、正面からぶつかられたら大怪我をしかねない。僕は瞬時に決意した。両足を広げ、低い姿勢になった。一足早くハンドルを捉えれば止められると考えたのだ。  全速力で向ってくる自転車の迫力は予想以上だった。胃がギュッと縮むのがわかった。  さあ来い。  奥歯をぐっと噛みしめ、全神経を自転車に集中した。その時だった。  左手から何か小さな影が立ちはだかるように飛び出した。次の瞬間、目の前が閃光で覆われた。続いて大きな音がした。音のしたほうに目を向けると、自転車が横倒しになっていた。すぐ脇に人影が倒れている。閃光を浴びて転倒したのだ。  唖然としている僕の前に小さな人影があった。「万引き犯」とほぼ同じ背格好だった。 「おい、大丈夫か」  歩み寄ろうと足を踏み出した瞬間、「万引き犯」が動いた。驚くほど機敏な動作で身を起こすと、僕の腕を潜り抜けてさっと自転車に跨った。  僕は自転車の前に立ちはだかろうとしたが、人影がペダルを踏み込むのが一瞬、早かった。強い風圧を頬に感じたかと思うと、次の瞬間にはもう自転車は走り去っていた。 「待てっ」 「焦るな」  横合いから声が飛んだ。子供の声だった。僕は思わず動きを止めた。すでに「万引き犯」の姿は曲がり角の向こう側に消えていた。全身から急に力が抜けていった。
/107ページ

最初のコメントを投稿しよう!