あの雨の日にした、僕とじいちゃんの約束

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あの雨の日にした、僕とじいちゃんの約束

 梅雨の時期、雨が絶え間なく降り続くのを見るたびに、俺はあの日のことを思い出す。  僕が小学一年生になって、初めて迎えた梅雨の季節。その日は、朝は雨が止んで晴れていた。だから、梅雨時にも関わらずつい傘を持って行くのを忘れてしまっていた。その上、その前の日に折り畳み傘を使ってしまい、濡れたその傘も家に置いてきてしまった。僕は、今日は雨が降らない、あるいは放課後になるころには止んでくれることを祈りつつ、不安な気持ちを抱えたまま学校での一日を過ごしていた。  僕の祈りをあざ笑うかのように、その日は午後から窓に打ち付けるように雨が強く降っていた。貸し出し用の傘なんてものも無い。周り見ると、他のみんなは傘を持ってきているみたいだ。確か、母さんも天気予報で今日は雨だって言っていた気がする。僕の家は、同じ方向に帰る人がとても少ないし、山の上にある。今日もきっと一人で帰る。その上、こんな日に傘を持ってきていないのは僕だけだろう。一人で帰るのはいい。でも、濡れて帰るのはいやだな。  僕は、どんどん気持ちが暗くなっていくのを感じながら、帰り学活を終えてランドセルを背負い、重たい足を無理矢理動かして昇降口に向かった。 「おお、涼太! 間に合ってよかった! 母さんから涼太が傘を忘れて行ったって聞いてな。ほおれ、持ってきたぞ。一緒に帰ろう」  昇降口で靴を履き替えて外に出ると、僕のじいちゃんが右手に自分の傘を差し、左手に僕の青い傘を持って待っていてくれた。僕は、大好きなじいちゃんが来てくれたことも、じいちゃんのお陰でずぶぬれにならずに済むこともどっちも嬉しくて、それまでどんよりしていた心が嘘みたいに晴れていくのを感じた。  僕はじいちゃんから自分の傘を受け取り、じいちゃんが僕の手に持っていた荷物を代わりに持ってくれて、僕たちは子どもの足だと片道四十分もかかる道のりを歩き始めた。雨はお昼ごろよりは落ち着いていたが、それでも絶え間なく降り続いている。  その道すがら、知らない生徒が何人もじいちゃんに挨拶をしてくる。じいちゃんは、仕事を退職してから毎日通学路に立って挨拶運動に参加したり、地域のパトロールをしているからこの地域ではちょっとした有名人だ。僕は少しだけ誇らしい気持ちになる。 「そういえば、涼太。学校に行き始めてもう2ヶ月くらいか。どうだ、学校は。楽しいか?」  他の子どもたちに挨拶を返したあと、じいちゃんが僕へと視線を戻して聞いて来た。僕はじいちゃんの隣に並んで、じいちゃんの顔を見上げる。髪の毛は真っ白だけど、皺の浮かぶその顔は、このどんよりした天気の中で唯一輝いているみたいだった。僕は、その爺ちゃんの笑顔に背中を押されるように返事をした。 「がっこうは、たぶんたのしいとおもう。いきかえりはひとりだけど、クラスにはしゃべるともだちもたくさんいるから。  でも、じいちゃん。ぼくね、ききたいことがあるんだ。  ……どうして『がっこう』では、みんな『べんきょう』をするの? ぼく、『べんきょう』はきらいじゃないよ。でも、ようちえんで、『さんすう』とかなかったし……まいにち、なんだかすごくふしぎなんだ」  僕はこの日、学校のことを話すついでに、入学してずっと気になっていたことをじいちゃんに聞いてみた。僕の両親は、共働きでいつも帰りが遅い分、僕に色んなことを教えてくれるのはじいちゃんとばあちゃんだった。特にじいちゃんは、いつも僕が納得するまで僕の質問に真剣に付き合ってくれていた。だからこそ、これは忘れてしまう前にじいちゃんに聞きたかったことだった。 「ふうむ……涼太は難しいことを聞くなあ。どうして勉強をするのか、かあ。多分な、それは色んな答えがあると思うんだが……儂の考えでいいなら、『人が勉強をするのは、大人になった時に社会に貢献するため』だと思うぞ」 「しゃかい? こうけん?」  じいちゃんの言葉が難しくて、僕は首を傾げる。傘に雨粒が当たっては、流れて地面に落ちていく。じいちゃんは僕の歩く速さに合わせてゆっくりと歩きながら、考えを巡らせるような顔をして、言葉を続ける。 「うーん……もっと簡単に言うとな。涼太の周りの大人は、みんな色んな仕事をしているだろう? 例えば、涼太の父さんは建物を作る大工で、母さんは看護師と言って、病気の人を助けている。スーパーに行ったら、レジでお金を計算してくれる人がいるし、学校には物事を教えてくれる先生や給食を作ってくれる人たちがいる。どれもみんな、大人がやっている『仕事』だ。  そして、『仕事』をするということは、誰かのために、みんなのために役に立つということなんだ。みんなのために役に立つことを、『社会に貢献する』って言うんだよ」  じいちゃんは、僕が聞いても理解できるように、いくつも例を挙げながらゆっくりと一つひとつ話していく。僕は、よくわからない言葉もあるけれど、じいちゃんの言葉を理解しようとじっと耳を傾けた。 「今涼太が生きていけるのは、涼太の父さんと母さんが一生懸命働いてお金を稼いで、儂とばあさんがその間涼太の面倒を見ているからだけじゃない。  涼太がこうして生きていけるのは、涼太の家を建ててくれた人がいるから。この道路を作ってくれた人がいるから。病気になった時に診てくれる人がいるから。食べ物をつくってくれる人がいるから。  普段直接目には見えないけれど、たくさんの大人がやってるそれぞれの仕事が、涼太の生活を支えてくれているんだよ」  傘に当たる雨音が、少しずつ緩やかに、そして静かになっていく。じいちゃんは、節くれだった大きな手で僕のまだ小さい手を優しく握り、地面にできたいくつもの水たまりを避けながら話し続ける。 「そしてな、涼太もいつか大人になったら、そうやって誰かを支える一人になるんだ。でも、なんにも知らなければ、支えたくても支えられないだろう?   今涼太がやりたいと思っても、病気の人を治したり、道路を作ったりできないのと同じだ。だからね、学校で少しずつ勉強をするんだ。ひとつひとつ積み重ねて、段々難しいことを勉強して……いつか大人になった時に、それが誰かの役に立つんだよ」 「うーんと……がっこうでべんきょうするのは、いつかだれかのやくにたつため? ぼくががんばってべんきょうすれば、だれかをたすけられるかもしれないの? そしたら、じいちゃんもうれしい?」  僕はこの時、じいちゃんがすごく大事な話をしているのは理解していたけれど、その中身は半分もわからなかった。だから、じいちゃんの言葉を一生懸命覚えながら、理解できたところだけじいちゃんに確認した。ここが一番大事そうだったからだ。 「おお、もちろん嬉しいぞ。一年生でそこまでわかれば十分。儂の孫は賢いなあ!   ……人はな、本当の意味で一人きりで生きていくことなんてできん。これからもずっと、誰かがどこかで涼太を支えてくれるんだ。だから、大人になって学校に行かなくなるまでに、涼太はどんな仕事をしてみんなを支えたいか、よおく考えておくんだぞ。どんな仕事だって、どんな小さなことだって、いつか、どこかにいる誰かのためになるんだからな」  ぬかるんだ地面に足を取られそうになりながら、長い長い通学路を歩く。そうこうしているうちに、あんなに酷かった雨が止み、曇ってはいるが少し空が明るくなってきた。  僕は学校で勉強することへの意味を見出し、勉強を頑張っていつか人の役に立つ、とじいちゃんと約束した。    それから三年がたったある日、じいちゃんは僕が学校に行っている間に突然倒れた。心臓発作だった。朝会った時はあんなに元気だったのに、母さんが学校に連絡をしてくれて、僕が病院に駆け付けた時にはすでにじいちゃんは亡くなっていた。  いつも僕のそばにいてくれたじいちゃん。大事なことをたくさん教えてくれたじいちゃん。僕の大好きなじいちゃん。  僕は、初めて人が亡くなるということを経験した。じいちゃんにもう二度と会えない。大好きな人を失うということが、こんなに辛いことだとは知らなかった。  横たわるじいちゃんの傍に駆け寄り、じいちゃんの冷たくなった手をそっと握った。そして、僕はどうやっても止まらない涙を拭きもしないでじいちゃんを呼び、じいちゃん行かないで、僕を置いて行かないでと叫んだ。すると、 『人が勉強をするのは、大人になった時に社会に貢献するためだと思うぞ』  あの日、じいちゃんが話してくれた言葉が僕の頭の中に聞こえてきた。僕がどんなに叫んでも、じいちゃんは目を開けなかった。でも僕は、もしかしたらじいちゃんが、最後に僕に伝えたかったことなのかもしれないと思った。後ろを振り返ると、僕の父さんと母さんも涙を流してじいちゃんと僕を見守っていた。  僕は歯を食いしばり、服の袖でごしごしと涙を乱暴に拭いた。そして、未練や悲しみをここに置いていくかのようにじいちゃんの手をもう一度ぎゅっと握った。そしてその場を離れ、僕はじいちゃんに縋って泣くのを止めた。  後から聞いたことだが、じいちゃんは、戦後間もないころに生まれ、空襲で焼け野原になったこの街で生まれ育った。食べることにも困っていたころを過ごしたにも関わらず、じいちゃんはこの街が好きで、この街をみんなが過ごしやすい街にしたいとずっと願っていた。だから、じいちゃんが子どもの時にやっと通えるようになった学校で必死に勉強をし、当時まだこの街では珍しかった大学進学をした。そして、卒業後はこの街に戻ってきて、市役所で街づくりの担当になり、ずっと都市整備を進めてきたそうだ。  俺は、あれから必死で勉強した。じいちゃんが生きていたときだって勉強は頑張っていたが、じいちゃんが死んだ後は、それこそガリ勉だと周りに揶揄されても構わず勉強した。  俺が住んでいるこの街のいたるところに、じいちゃんがその整備に関わった道路や橋や建物がある。じいちゃんみたいに、死んでしまった後も誰かのためになるようなことができるとは思わない。でも、俺は俺なりに何かしらできることを探していた。そして、あの日じいちゃんが一生懸命教えてくれた、その思いに応えたかった。 「あれからもう二十年も経つのか……俺も年取ったな」  じいちゃんを亡くしてから小学校を卒業し、中学生になり、高校生になり、大学も卒業した俺は、中学校の教師になった。  学生の間、俺はじいちゃんの言葉の意味をずっと考えていた。そして、俺が一人の大人として社会に貢献する方法で選んだのが教師だった。  勉強ばかりしていた俺は、次第に同級生から勉強を教えてほしいと頼まれることが増えていた。別に嫌ではなかったので、頼まれるままに教えているうちに、自分が理解できることと人が理解できるように教えられることは、別次元の話なのだと気づいた。人にわかるように教えるということは思った以上に難しく、そして面白かった。  それに、教師の仕事は大変だけど、子どもたちの役に立つだけではない。それはいつか、未来を担う人材を育てることに繋がっているのだ。大それた話、自分の仕事が回り回ってこの国や世界の役に立つかもしれないのだ。俺一人ができることなんて、俺が役に立てることなんて、きっとほんのわずか。それでも、自分が関わった子どもたちがいつか、どこかで誰かのために頑張ってくれたら、こんなに嬉しいことはない。 「じいちゃん。俺、まだそっちには行けないよ。まだまだ、じいちゃんの足元にも及ばないからね」  俺は仕事の手を止め、自室の書斎の机の上にある一枚の写真立てを手に取った。まだ幼い俺を膝に抱えて嬉しそうに笑う、じいちゃんが映った写真だ。じいちゃんはもういない。でも、目には見えなくても、俺はじいちゃんがどこかで見守ってくれている気がしていた。だからこそ、俺はこれからもじいちゃんとの約束を守っていきたい。そしていつか、じいちゃんに胸を張れるような人間になりたい。  書斎の机で準備していた明日の授業の資料を一旦脇にやると、俺は両手を頭上に伸ばし、思いっきり伸びをする。そして、椅子から立ち上がり、気分転換に部屋の窓を開けた。  もう夜0時を回りそうな夜更けだ。窓の外の真っ暗な闇の向こうに、建物や街頭の光がぽつりぽつりと浮かぶ。 そしてその窓からは、じいちゃんと約束したあの日のように、湿った梅雨の匂いのする空気がむわりと入ってきていた。
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