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22
父の診察の日、母に家の事を頼まれた梨一は、買い物かごを手に裏口から家を出た。商店街の通りに出るなり、よく見知った相手と鉢合わせした。
「……あれ? 清水のおばちゃん?」
シャッターが下りた店先にいたのは、日頃お世話になっている清水精肉店の女店主だった。葛城家同様、清水家とも家族ぐるみのつき合いだが、同時にパティスリー佐倉のお得意様でもある。
「ああ、梨一ちゃん! いいところで会ったわ。もう二週間になるけど、お父さんの火傷の具合はどう?」
「心配かけてごめん。もうかなりマシになってきてたから、今日にも包帯が取れるんじゃないかな」
「そうなの? よかったわぁ」
そう言って、清水のおばちゃんは安心したとでもいうように、胸の辺りに手を当てる。福々しい顔がふにゃりと緩むと、細い目がいっそう細くなった。優しい笑顔は、梨一が子供の頃からまるで変わらない。
「じゃあお店も来週には再開できそう?」
「うーん、それは父さん次第だけど……。なんか入用だった?」
「特別何かあるわけじゃないのよ。ただお店が閉まってると三時のおやつを買えなくて困っちゃうのよね。ほら、私糖尿の気があるじゃない?」
「え――?」
ドキリとした。
清水のおばちゃんは、二日に一度、必ず三時のおやつを買いに来てくれる。店番をしていた梨一は、おばちゃんが来る度、今日は人が少ないだとか、昨日の野球はどうだったとか、くだらない世間話から真面目な話まで、たくさん話をした。それなのにおばちゃんに糖尿の気があるなんて、今の今まで知らなかった。
糖尿病は怖い病気だ。まだ通院が必要なレベルではないにしても、食べるものには気をつけなければいけない。甘いお菓子なんてもってのほかだ。
「ちょ、ちょっと待ってよ、おばちゃん。お菓子なんか食べちゃダメなんじゃないの?」
「そうなのよー。だから佐倉さんが低糖質のお菓子を置いてくれるようになって、本当にありがたくって。まったく、早くお店を再開してくれないと、痩せ細っちゃうじゃない」
「あれって、おばちゃんのためだったんだ?」
確かに店には低糖質メニューというものがある。材料に豆腐やおからを使ったケーキや、砂糖を極力使わず、はちみつで代用した焼き菓子など、小さな町の洋菓子店にしてはバリエーションも豊富だった。いつからかショーケースに並ぶようになったそれらを、父は清水のおばちゃんのために考案したらしい。
「うちの孫が卵アレルギーだって相談したら、卵を使わないお菓子も考えてくれてね。一家そろってお父さんにはお世話になりっ放しなのよ」
『梨一はこれを誰のために作った?』
問いかける父の声が、不意に蘇ってくる。
商品は客に提供するためのもので、味は美味いに越したことはない。だけど父が目指したのはそういう洋菓子店ではなかった。
甘いものは人を幸せな気分にしてくれる。だけど世の中には、いろんな事情で甘いものを食べられない人もいる。体調を気にする人でも、アレルギー持ちの子供でも、みんな等しく幸せな気分になれる。父が作り続けてきたのは、そういうお菓子だ。
梨一に店番を任せていたのは、そんな人を見る目を養って欲しいという思いからだったのかもしれない。
(だったら俺、本当に何もわかってなかった……)
「ねえ梨一ちゃん。お父さんが大変な時は支えてあげてね。おばちゃんも手伝える事があればなんでもするからね」
そう言って柔らかな手で梨一の手をぎゅっと握りしめる。心からの言葉がありがたくて、今まで何も知らずにいた事が申し訳なくて、顔を上げる事ができない。
このままじゃだめなんだと、心から思った。だけど同じところを目指しても、きっと父は納得しない。
(航みたいにうまくはやれないかもしれない。でも俺は俺らしくやってみたい。もう中途半端で投げ出すのは嫌だ)
「……ありがと、おばちゃん。俺、頑張るよ」
なんとか笑顔を作ってそう言うと、清水のおばちゃんはうんうんと力強く頷いてくれた。
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