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 忘れもしない、あれは中学校の卒業式。桜のつぼみはまだ固く、晴天だというのに空気はキンと冷えていた。  よく通る澄んだ声が体育館内に響き渡り、凍えた空気をいっそう張りつめたものにする。静まり返った体育館で、答辞を読み上げる凛とした後ろ姿を、佐倉梨一は目玉が乾く勢いで食い入るように見つめていた。もう二度と見られないだろう姿を、どうにかして瞳に焼きつけておこうと思ったのだ。  まっすぐな黒髪。きちんとアイロンがかけられたスカートのプリーツ。それらが風に揺れる度、梨一の視界もゆらゆらと揺れた。ついにはじわりと滲み始め、焼きつけておきたいと願った光景は、あえなく涙の海に水没した。 「――バカ、泣くな。ほら、これ使え」  横からスッと差し出された白いハンカチを当然のように受け取り、濡れた目元を拭った後、ついでにチンと鼻をかむ。自分でもばっちいと思ったそれを、ハンカチの持ち主は特になんの反応も見せずに再びポケットにしまった。  白いハンカチは彼女のスカート同様、きっちりとアイロンがかかっていた。さすがに鼻をかむのはよくなかったかと反省したものの、「卒業生代表、篠田希実」という締めの言葉を耳にした途端、殊勝な思いは一瞬で頭の隅に追いやられた。  滞りなく式を終えると、体育館の出入り口で胸に赤い花をつけてもらい、二列に並んで渡り廊下を歩いた。憧れの篠田は斜め前を歩いている。長い髪が風に揺れて、また視界が揺らぎそうになったけれど、横を歩いている幼なじみにぽすんと頭を叩かれ、泣いてる場合かと思い直した。  それからの出来事は、十五歳には辛すぎたのか、断片的な記憶しかない。 覚えているのは、三年に渡った初恋があの日無残に砕け散った事。篠田が選んだのは自分ではなく、隣に突っ立っていた幼なじみの朴念仁だった事。そして朴念仁は「女とつき合う自分が想像できない」という、いかにも朴念仁らしい理由で彼女を振った事。  みんなが見ている前で朴念仁に振られても、篠田は泣かなかった。校門を潜る彼女の背中はやっぱり凛としていて、その背中を見て梨一は泣いた。朴念仁がもう一度ハンカチを差し出してきたが、梨一の涙と鼻水で湿ったしわくちゃのそれを、今度は頑として受け取らなかった。  もう二度と着ない学ランの袖で乱暴に顔を拭い、ずんずんと校門へと向かう。朴念仁が後をついて来て、結局肩を並べて帰宅した。  家につくまでの間、自分も相手も終始無言だった。醜い嫉妬心が胸の中で渦を巻く一方で、ハンカチを突っぱねてしまった幼さを恥じた。 「じゃあな、航。今日でお前と離れられると思うとせいせいするよ」  それでも別れ際に口をついて出たのは、小憎らしい悪態だった。言った後すぐに後悔したが、無駄に肥大したプライドが邪魔をして、すぐに謝る事ができない。  無口な幼なじみは「そうか」と呟いたきり、それ以上は何も言わなかった。 その時、隣の男がどんな顔をしていたのか、梨一はもう覚えていない。
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