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「…………い、おい、起きろ。梨一」 「おえ?」  柔らかなもので即頭部をぽすんと叩かれ、梨一はぱちぱちと目を瞬いた。店番の途中で、いつの間にかうたた寝をしてしまっていたらしい。カウンターに敷かれた赤いチェックのクロスが、よだれでしっとりと濡れていて、梨一は慌ててコックコートの袖で拭う。 「それ、他の客の前ではすんなよ。買う気が失せる」 「……航、何しに来たんだよ」 「ケーキ屋に来てケーキを買う以外に何をするんだ。仕事に使う手土産、一万円くらいで適当に見つくろってくれ」  男はそう言うと、店内に置かれた折り畳み式のイスにどっかりと腰を落ち着けた。長い足を持て余し気味に組み、早くしろと言わんばかりに顎をしゃくってみせる。  染みのついたコックコート姿の自分に対し、男はダークグレーのスーツをピシリと着こなしている。ネクタイは春らしいクリームイエロー。シャツは寝起きの目に眩しい白だ。少々甘めのコーディネートは、男の精悍過ぎる顔立ちをほどよく中和していた。  頬は削げ、身長はバカみたいに伸びたが、癖のない黒髪と、どこか物憂げに見える奥二重は子供の頃のままだ。 「何、ぼうっとしてるんだ。二時までに戻りたいんだが、間に合いそうか?」  声もずいぶん低く、太くなった。口調は昔と変わらずぶっきらぼうなのに、鼓膜を通すとじわんと甘く響くのが不思議だ。 「おい、梨一」 「き、聞こえてるよ、うるせーな」  葛城航は梨一の幼なじみだ。  同じ幼稚園から同じ小学校、中学校と進み、高校でようやく二人の道は分かたれた。理由は言わずもがな、頭の出来の差だ。  高校卒業後、家がケーキ屋という理由でなんとなく製菓の専門学校へと進んだ梨一に対し、航は日本人なら誰でも知っている国立大学へとストレートで進学した。そして今は都内の外資系インテリアメーカーで営業をしている。  最初はこの無愛想男に営業なんてものが務まるのだろうかと心配していたのだが、意外にも成績は優秀らしく、今年、入社して六年目にして主任という役職に就いた。  頭が切れる上に顔までよく、性格は温厚で親思い。同年に、斜向かいの家に生まれた男児と言うだけで、梨一は幼い頃からこのでき過ぎた幼なじみと散々比べられて育ってきた。そして極めつけがあの中学校の卒業式だ。 「なあ、お前んとこにもきたか? 篠田の……」 「ああ、結婚式の招待状か。昨日届いた」  手際がいいとは言い難い手つきで、パウンドケーキや焼き菓子を箱に詰めながら、梨一は「うちも」と言葉を返す。懐かしくも忌まわしい夢を見たのも、間違いなくあの招かざる書状のせいだ。 「お前、行くの?」 「日曜は接待ゴルフの予定が入る事もあるし、とりあえずまだ保留だ。お前は? 久しぶりに会いたいんじゃないのか?」 「……俺が篠田にってより、向こうがお前に会いたがってんじゃないの」 「十年以上も前の感傷をいまだに引きずってるわけないだろ。お前じゃあるまいし」  もっともな指摘に、ただでさえ低空飛行気味だった気分がずうんと落ち込む。二十数年来のつき合いだけあって、航の言葉には遠慮も容赦もない。 「だっ、誰が引きずってんだよ。高校ん時も専門ん時も、俺、ちゃんと彼女いたし!」 「誰とも長く続かないのは引きずってる証拠じゃないのか」  幼なじみならではの厳しい言葉が、グサリと胸に突き刺さる。なんでもできるこの男には、口でも敵わないのだ。これ以上話していても、おそらくろくな事はない。 「ホラ、できたぞ。いつも通り日持ちするやつを選んで入れといたけど、それでいいんだよな?」 「ああ、助かる」  丁寧にラッピングを施し、紙袋に入れた菓子の詰め合わせをほらよと突き出す。客への対応とも思えない粗暴さだが、鷹揚な幼なじみは文句も言わず、サンキューと受け取った。  会計を済ませると、航が腕時計で時間を確認する。ブラックフェイスのカラトラバは、武骨すぎない航の腕にしっくりとなじんでいた。さらりと身に着けているが、あれ一つで梨一の二年分の給料に匹敵するという、恐ろしい時計だ。 「時間がないなら会社の近くで買えばいいのに。港区ならケーキ屋なんてそこら中にあるだろ?」 「たとえ仕事の相手でも、どうせ渡すなら自分がいいと思うものを渡したいからな」 「……いい加減食い飽きてるんじゃねえの?」  何せ四半世紀以上も同じ味の菓子を食べ続けているのだ。梨一だってパティシエとしての父親を掛け値なしに尊敬しているものの、たまには目新しいものが食べたいというのが正直なところだった。  実際小学生の頃など、おやつに焼き菓子が出てくると、「ようかんか栗まんじゅうが食べたい」と喚き散らして親を困らせた。  ちなみにふてくされた梨一のおやつを始末してくれたのは、常に隣にいたこの男だ。何を出されても美味そうに食べる姿に両親はいたく感激し、文句ばかり言う梨一を「食べ物屋の息子のくせに」と叱った。あの出来事以来、航は佐倉家の人間から家族同然と認識されている。 「別にうちの店に義理とか感じなくていいんだぞ? そんな他人行儀な間柄でもないしさ」  航は何も言わず、困ったように少し眉を寄せ、唇だけで軽く笑んだ。見慣れた苦笑。いつからか航は、よくこんな風に苦々しい笑い方をするようになった。  男らしく整った眉と、思慮深げな奥二重。黒目が目立つ瞳はややもするときつく見えてしまいがちだが、笑った時にできる目尻の皺は優しく、そんなギャップも女性うけしそうだなと思う。  対する梨一はと言えば、癖のあるマロンブラウンの髪と、丸っこい瞳のせいか、いまだに学生と間違われてしまう軽薄さだ。女性に異性として意識される事はあまりなく、仲良くなってもいつも友達止まりで終わってしまう。  学生時代、気の置けない女友達に囲まれていた梨一の隣で、航が密かにもてまくっていた事は知っている。成人した今は経済力という武器まで手に入れ、まさに怖いものなしだろう。  金を積まれても、こいつとだけは絶対に合コンには行くまい。そんな事を思いながらよくできた顔を眺めていると、航がらしくもなく柔らかな笑みを浮かべ、大きな手で梨一のくせ毛をくしゃりと掻き混ぜた。 「そろそろ行く。お前もいつまでも感傷に浸ってないで、店番くらいしっかりやれよ」 「だから! 別に引きずってないって!」  ふくれっ面で言い返すと、航がポケットからハンカチを取り出し、いつかのように目の前に差し出してくる。 「……なんだよ、これ」 「それで鼻もかんどけ。じゃあな」  無表情でそう告げ、くるりと踵を返す。カランコロンとカウベルが鳴り、店内に梨一だけが残った。  爽やかなブルーのハンカチは、きちんとアイロンがかけられている。何もかもあの頃と同じ。違うのは値段くらいのものだろう。  色褪せたはずの苦い思い出は、こうして航が顔を見せる度にいやでも蘇ってくる。  いつまでもガキみたいな自分と、自立した大人の男に成長した航。年を経るにつれ、自分たちの差は開いてゆくばかりだ。だがどれだけ目障りでも、決して嫌いにはなれない。いまだになんだかんだと構ってくる航にしても、似たような気持ちだろう。  空気のように側にいるのが当然で、普段はその存在すら忘れている。多分幼なじみなんてそういうものだ。
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