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 これからはちょくちょく顔を出すと言っておきながら、一度父を見舞ったきり、航は顔を見せる事はなかった。  「やっぱりあいつは薄情者だ」 「ちょっと。キモいから独り言やめな、梨一」  ぶつぶつと小言を言いながら、花梨がプリンターから吐き出される紙をどんどん二つに折っていく。  花梨が折ってくれているのは、自作した投げ込み用の広告だ。とりあえず商店街周辺の家に配れるよう、五百部ほど印刷してみたのだが、不器用な梨一だけでは手が足りず、見かねた花梨が手伝いを申し出てくれたのだ。その上、広告代理店に勤める昌人のコネクションを使って、葛城金物店にも負けない、スタイリッシュな広告をデザインしてもらった。二十八年、口うるさい姉だと思い続けてきたが、今回ばかりは花梨に頭が上がらない。 「それにしてもプロの仕事ってすげえよな。この写真、確かにうちの店なんだけど、こうやってデザインの中に埋め込んだら、どっかの上品なパティスリーに見えるもん。義兄さんによろしく言っておいてくれな」 「それはいいけど、ほんとにあんた一人でなんとかなるの?」 「わかんねー。でもやるしかないじゃん。姉ちゃんも手伝ってくれるだろ?」 「もちろん、自分でやるって言った以上、できる事はなんだってやるけどさ」  清水のおばちゃんと話をしてから、梨一は普段使わない頭をフルに使って、これまでの店のスタイルを維持したまま何か新しい事はできないかを考えた。  どんな人も平等に、美味しいお菓子を食べてもらいたい。それが父の望みならば、いっそこちらから届けるのはどうだろうと、お菓子の配達を思いついた。そうすれば忙しくておやつを用意する時間がないお母さんや、足の悪いお年寄りも、店頭に出向く事なく美味しいお菓子が食べられる。ついでにお菓子に使用する材料を選べるようにすれば、アレルギー持ちの人にも安心して利用してもらえるはずだ。  ただそれだけでは配達の手間が増える分、逆にコストが嵩んでしまう。そこで通信販売を始める事で、新規の顧客を獲得できないかと考えた。こちらも配達受注同様、材料を指定できるセミオーダーシステムを取れば、他店との区別化を計る事ができるだろう。  だが両親はそろって梨一の提案に反対した。配達や通信販売への対応に手を取られ、日々の業務が立ち行かなくなるのは本末転倒だと言われると、それでもやると強気で言い返す事はできなかった。返答に困った梨一に助け船を出してくれたのが、隣で話を聞いていた花梨だ。 「通信販売の対応ならあたしが請け負うわ。ネット環境さえあればどこでもできるしね。配達は梨一が全部引き受けるって言ってるし、梨一がいない時はあたしが店番をやればいいだけの話じゃない。どうせ店を畳むつもりだったんなら、最後くらいやりたいようにやらせてやったら?」  長女の男前な発言に、昔気質な両親も「条件つきでなら」とどうにか折れてくれた。父が提示した条件は二つ。一つは味のクオリティーを落とさない事。もう一つは、二年で結果を出せなければ、予定通り店を畳むという事だった。  二年後、梨一は三十歳になる。人生をリセットするなら、いい区切りだと父は考えているのだろう。  条件つきとはいえ、家族の了解を得た梨一は、ケーキの試作を続ける傍ら、栄養学の勉強を始めた。友人の協力を得て店のホームページを作成し、通信販売受付の準備も並行して進める。  二月後に再開の目処を立てると、父はリハビリと称してご近所さんや親戚にふるまうお菓子を作り始めた。時間がある時は梨一も手伝い、一緒にケーキを作ったり、新作のアイデアを出し合ったりもした。  忙しい毎日を送りながらも、ふとした瞬間に幼なじみの顔がよぎる。  なんでも器用にこなす男だが、実家のリニューアルを決めた時は、今の梨一のように思い悩んだりもしたのかもしれない。車で十分の場所に姉がいる梨一と違い、航の兄の尊は東京にいるのだ。気軽に相談する事も、手伝いを願い出る事もできなかったに違いない。  泣き事を言うような男じゃないから、こっちが気づいてやらなきゃならなかったのに。しっかりしろと発破をかけてやることも、背中を叩いて頑張れよと励ましてやることもできなかった。今頃になって、自分の未熟さを嫌になるほど思い知る。 「梨一? そろそろ焼き上がってるんじゃないのか?」 「……え? あ、ほんとだ!」  危うく焦がすところだったと、梨一は慌てて焼き上がったばかりのケーキを取り出す。作っていたのは、タルトタタン。父にもう一度食べてもらいたいと思っていたケーキだ。 「本当ならちゃんと冷蔵庫で寝かせてから食べてもらうべきなんだろうけど」  まだ熱いケーキにナイフを入れ、慎重に切り分ける。少し歪になってしまったが、店に並べるわけじゃないし、大目に見てもらおう。 「これは……、紅玉か?」  「父さんに食べてもらうなら、サンふじよりこっちかなと思って」  渋好みの父に合わせてシナモンを少し多く入れ、リンゴもより酸味の強い紅玉を使った。 「生地はタルトじゃなくてパイか」 「パイ生地の方が軽くて胃がもたれないから」 「なるほど」  半月やそこらで劇的に上達するなんて事はあり得ない。実際カラメルはやっぱり少し焦がしてしまったし、ワインの分量も多いような気がする。だけど梨一はこれを、父の姿を思い浮かべながら作った。それが以前とは決定的に違うところだ。 「前に父さん、お菓子作りはバランスと愛情だって言っただろ? あれって食べてくれる人の事を考えるって事なんだよな。俺は美味しいと思うものを作ってきたつもりだったけど、すごく自分本位な考え方だったなって今は思うんだ」 「何が正解かなんて本当は僕にだってわからない。だけど自分の作ったものを美味しく食べてもらいたい、それだけは確かだからね」 「うん……」  父が皿とフォークを手に取り、タルトタタンを口に運ぶ。梨一はお茶を淹れながら、自分が作ったケーキを食べている父の横顔を眺めていた。  カトラリーが立てるカチャカチャという音と、ティーカップから立ち上る湯気。作業場の窓から差し込む午後の日差しが、猫背気味な父の背中を柔らかく照らしている。 「――ごちそうさま。とても美味しかったよ。酒が飲みたくなるような大人のケーキだった」 「ほんとに?」 「お菓子ってこんなに美味しいものだったんだな。何十年もお菓子作りをしてきたくせに、今更そんな風に思うなんておかしいね」  笑顔でそう言う父に、うまく笑い返せたかどうかはわからない。だけどこれから先タルトタタンを見る度に、この眩い午後の光景を思い出すんだろうなとなんとなく思った。
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