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都心から電車で約三十分。自宅から歩いてすぐの場所に駅もバス停もあるし、図書館や郵便局だってある。都会ほど栄えておらず、田舎と呼べるほどの風情はない。梨一が暮らすのはそんな街だ。
品揃え豊富なスーパーや便利なコンビニエンスストアに押され、最近ではわざわざ商店で買い物をする人は減ってしまったらしい。梨一の実家がある椿森商店街も例外ではなく、ここ数年でシャッターが下りたままの店舗が目につくようになった。
実際、店で買い物をしてくれるお客さんも、そのほとんどがなじみの人たちばかりで、飛び込みの新規客はほぼゼロだ。それでもどうにか営業を続けていられるのは、ひとえにパティシエとしての父の腕と、義理人情に溢れたご近所さんたちのおかげだった。おそらくどこの店もそんな感じだろうと思う。いや、思っていた、今この時までは。
「なんの騒ぎだよ、一体……」
開店前、店内の拭き掃除を仰せつかった梨一は、店先のウインドウをぞうきんで拭きながらぽつりと呟いた。
父親の一秋が経営する「パティスリー佐倉」と、航の父親で三代目になる「葛城金物店」は、ちょうど斜め向かいに位置している。つまり目と鼻の先だ。その目と鼻の先で、ちょっとした事件が起こっていた。
「まさか火事か物盗りか?」
「バカ。今日は葛城さんとこのリニューアルオープンの日でしょうが。例の広告を見たお客さんが押しかけたんでしょ」
ショーケースにはたきをかけていた花梨が、梨一の頭をパタパタしながら呆れたように言う。
「おい! 俺の頭に埃なんてないだろ」
「はいはい。あんたには誇りもないわよね」
うまい事を言いながらフンと鼻で息を吐くと、花梨がくるりと背を向ける。接客用のエプロンを身に着けているところをみると、今日も自分の家には帰らず、店の手伝いをする気でいるらしい。
「姉ちゃん、いつまで家にいる気だよ。旦那放っておいてもいいのか?」
「昌人さんは大阪に出張中。千尋の幼稚園は春休み。あんたはぼんくら。何か問題ある?」
「ありません……」
最後のやつはどう考えてもただの悪口だが、あえてスルーする。朝からこれ以上花梨と言い合う元気は、梨一にはない。
「すごいなあ、航くん。あたしも後で見に行ってみようかな」
花梨が作業の手を止めて、ぽつりと独りごちる。つられて梨一も再びウインドウの外に目をやった。
まだ開店前だというのに、店先では若い女性が列をなしている。歩行者の妨げにならないよう、航の母親である泉おばさんが頭を下げながら女性たちを並ばせていた。慣れない人員整備にあたふたしながらも、その横顔はどこか嬉しそうだ。
「商店街にたくさんお客さんを呼んでくれたんだから、うちも感謝しないとね」
花梨の言う通り、葛城金物店の劇的リニューアル効果で、この椿森商店街もしばらくは賑やかになるだろう。周辺の店もおこぼれに与る事ができるに違いない。飛び込み客が増えるのなら、それは梨一にとっても願ってもない事だ。だけど、
「……面白くねえ」
苦々しい本心が漏れてしまい、梨一は咄嗟に背後を見やる。幸い花梨は掃除を終えて店の奥に引っ込んだ後だった。
イタリア製のスーツも、高価な腕時計も、すごいなと思いはしたものの、羨ましいと思った事は一度もない。その給料に見合う仕事を、あの男はそれこそ寝る間も惜しんでこなしているのだ。だけど今は心底羨ましいと思う。そして同じくらい悔しくもあった。
商店街に人を呼び戻したのも、おばさんを笑顔にしたのも、紛れもなく航の功績だ。それに引き換え自分ときたら、ボロぞうきん片手に古びたウインドウを拭きながら、幼なじみの成功を羨む事しかできないでいる。
梨一だってこのままでいいと思っているわけじゃない。ここ数年で、父も母も目に見えて年を取った。ニュースでシャッター商店街の映像が流れると、決して他人事じゃないと気分がふさぐ。だけど自分なんかに一体何ができるというのだ。航のように学があるわけでもなく、父のような腕があるわけでもない。
ガラス一枚隔てた向こう側では、相も変わらず若い女性が列をなし、店のオープンを今か今かと待ちわびている。そこに朝の静謐さはなく、なじみのない浮かれた喧噪が溢れていた。
「なんか俺って小せえなぁ……」
ウインドウに額をぶつけたら、ごつんと結構な音がした。これは瘤になっているかもしれない。
「ちょっと、あんたいつまで窓拭きしてんのよ。もうお店開けるわよ。ほら、どいたどいた!」
番重を抱えた花梨が、後ろから膝かっくんを仕掛けてくる。まんまと前のめりになった梨一は、ぶつけたばかりの額を再びウインドウにぶつけた。
「痛えっ」
「なによ、大袈裟ね。ガラス高いんだから、石頭で割らないでよ」
そう言いながら、花梨が手際よくショーケースにケーキを並べていく。痛む額を擦りながら梨一もせっせと手を動かした。せめて自分にできる事くらいは、手を抜かずにやりたかった。
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