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葛城金物店リニューアルオープンの恩恵か、閉店時間を前にしてショーケースの中はほぼ空になった。焼き菓子に至っては数種が売り切れてしまい、父と梨一は休憩時間返上でパウンドケーキやフィナンシェを焼き上げた。
体は疲れているけれど、気分は妙に高揚している。心地好い疲労感を味わっていると、不意にカランとカウベルが鳴った。
「よう。おつかれー」
気の抜けた声かけに、男も「おう」と無愛想に答える。今日の航はシャドーストライプのネイビースーツに、シルバーのタイを合わせている。一度帰宅した後わざわざ寄ったらしく、珍しく手ぶらだ。木製の素朴なドアの前に百八十をゆうに超える長身の男が立つと、違和感を通り越してなんだか笑えてしまう。
「シュークリームをあるだけくれ。自宅用だから包装は適当でいい」
「またカスターシュー?」
パティスリー佐倉で販売しているシュークリームは二種類ある。一つは柔らかめのシュー皮にカスタードクリームを注入した、昔ながらのカスタードシュークリーム。もう一つはさっくりと焼き上げた皮に砕いたアーモンドと粉砂糖を散らし、生クリームをふんだんに挟んだシュー・ア・ラ・クレームだ。
見た目にも美味しそうなシュー・ア・ラ・クレームは午前中の内に完売してしまうのだが、カスタードシュークリームの方はこの時間でもたいていまだ残っている。
航はこの安価でお手軽なカスタードシュークリームがお気に入りらしく、ここ数年自宅用に買って帰るのはいつもこれだった。悪く言えば売れ残りの商品を買い取ってくれるので、店としては助かっているのだが、少し申し訳ないような気もする。
「たまには違うのにすれば? オペラならまだあるぞ。お前チョコレートケーキ好きだったじゃん」
「いや、それでいい。他のケーキは客のものだが、このシュークリームは俺のだからな」
「はあ?」
意味不明な事を言いながら、航は店内をぐるりと見回し、いつもより空いた棚をしげしげと眺めている。
「……お前んち、大盛況だったみたいだな。よかったじゃん」
「――来てくれたのか?」
「いや。姉ちゃんがそう言ってたし、朝から人がすごかったからさ」
航がプロデュースしたという店の内装。それが気にならないと言えば嘘になる。だが見たくないという気持ちもあった。
「チラシは見たぞ。なんか小洒落てて、お前んちじゃないみたいだった」
「店頭にはアンティークの金具やら調理グッズあたりを置いて、専門職の強い商品については別注のみの対応にしたんだ。今時金具も工具もどこででも手に入るが、凝った作りのものは探さなきゃ買えないからな。今後はそっちを売りにしていこうと思ってる」
航の言う事はもっともだ。少し車を走らせれば大型ホームセンターがあり、大概のものは簡単に手に入ってしまう。インターネットで取り寄せれば、半日も待たずに望みの商品が家に届く。そんな時代に商店街の小さな金物屋が生き残るには、思い切った方向転換をするしか道はない。
「頭の硬い親父を説得するのは骨が折れたが、今はやってよかったと思ってくれてるみたいでホッとしたよ」
「……ふうん」
上滑りな返答に、空気がずんと重くなる。
梨一は「葛城金物店」が好きだった。
狭い店内には、何に使うかもわからないような商品が所狭しと陳列されており、あれは何、これは何に使うのと質問責めをして、店番をしていた泉おばさんを困らせたものだ。
光を弾いて輝く銀やアルミの製品は、眺めているだけで胸が弾んだ。航と二人で、悪いヤツが攻めてきたらここの武器で戦おうと、子供じみた夢想もした。思い出深い、大切な場所だ。それがなくなるのは、仕方がない事とはいえ、やはり寂しい。
「気にくわないのか?」
体を傾げ、航が下から顔を覗き込んでくる。どうやらトングを掴んだまま、しばらく固まっていたらしい。
「……いいんじゃねーの、別に」
探るような視線から逃れ、シュークリームを箱に詰める。額の辺りに強い視線を感じたが、あえて無視した。
「そうだ、梨一。親父さんたちに花の礼を言っておいてくれるか。そのうち家の誰かが改めて礼にくると思うけど」
「うん」
「花梨さんからも差し入れもらったみたいなんで、よろしく伝えておいてくれ」
「姉ちゃん、店に行ったんだ……?」
「ああ。ここも忙しかったみたいなのに、わざわざ申し訳なかったよ」
手土産まで用意しておいて、見に行ってみようかななんて言っていたのだ、あの姉は。まったく白々しいにもほどがある。
「ちなみにその差し入れってなんだった?」
「観音屋の栗ようかんだけど」
その答えを聞くなり、梨一はきゅっと眉を寄せる。銀座の本店に毎日行列ができるという栗ようかんは、甘党である幼なじみの好物だった。
「それ、もう食ったの?」
「帰ったら親とスタッフが全部平らげてたよ。美味かったって言ってた」
つまりこの後この男が口にするのは、銀座の高級ようかんではなく、なんの変哲もないこのカスタードシュークリームということだ。
勝った。
死ぬほどどうでもいい勝負だが、とりあえず花梨に勝ったと思った。
「花梨さん、俺の好物なんか忘れずに覚えててくれたんだな」
目の前の男の意識が、不意に遠くなる。目尻を撓ませてふわりと微笑む顔は、これまで梨一が見た事のないものだった。
「……航、お前ってさ――」
(姉ちゃんの事が好きだったんじゃないの?)
そう続けようとして、思わず言葉に詰まる。
もしそうだと言われたところで、花梨は人妻だ。かわいい息子だっている。結果がわかりきっているのに、頑張れなんてとても言えない。
ふと、あの時の航もこんな気持ちだったんじゃないかと思った。梨一が生まれて初めて失恋した日、航は何も言わなかった。ただ側にいて、梨一が泣くとハンカチを差し出してくれた。
「――梨一、やっぱりこれもくれ」
囁くようにそっと声をかけられ、梨一は目を瞬かせる。航が長い指でこつこつとショーケースを叩き、一つだけ売れ残っていたオペラを指差した。これでケーキは完売だ。
「……ああ。シュークリームと一緒に入れるか?」
「いや、別で頼む」
ケーキの入った二つの箱をカウンターに並べ、ぽちぽちとレジを打つ。支払いを済ませると、航はシュークリームの入った箱だけを手に取った。
「あ、待てよ。今紙袋に入れるから。箱二つだと持ちにくいだろ?」
「そっちはお前にやるよ。美味いから一度ちゃんと食ってみろ。俺はこれだけで十分だ。腹が出たら困るしな」
「は⁉」
期限が今日までのシュークリームを六つも買っておいて、今更何を言っているのか。そもそもうちの商品に、一度食ってみろも何もない。
「じゃあな」
とんちんかんな言葉を言い置いて、航は斜め向かいの家に帰って行った。豪快なストライドで通りを横切り、その後ろ姿はあっという間に見えなくなる。
「相変わらず掴めないヤツ……」
空になったショーケースと、父自慢のチョコレートケーキが入った小さな箱を見下ろし、梨一は呆然と呟く。
子供の頃は、航と自分は頭の中で繋がっているのだと本気で思っていた。航には梨一の考えは全てお見通しだったし、梨一にしたって、鉄面皮の航の感情を読み取れるのは自分だけだという自負があった。
それがいつの頃からか、航は繋がっていた心の回路を遮断してしまった。梨一はと言えば、一方的に自分の気持ちを見透かされるのが嫌で、わざと自分の思いとは正反対の言動を取った。欲しいものをいらないと言い、行きたくない場所に行きたいとごねた。
やがて物理的な距離が二人を引き離すと、航はますます得体のしれない相手になってしまったのだった。そうして、味気ない今に至る。
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