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今日の航は、すっきりとしたネイビーのパンツに、グレーのニットを合わせている。袖を緩く捲くっているせいで、普段はスーツの下に隠れている腕が露になっていた。浅いV字の襟刳りからは骨張った鎖骨が覗いていて、全体的にどことなくエロい。
対する自分は、ガーゼ素材のボタンダウンシャツに、ロールアップしたジーンズ。足元はスニーカーという気軽さだ。
「なんだよその格好。休みの日に近所の土手でキメキメとか、恥ずかしいヤツだな」
負け惜しみでそう言うと、航は「キメキメ?」と小首を傾げた後、「家に帰ったらどうせジャージだ」と無表情で答えた。
外では完璧なこの男も、家の中では家族にだらしのない姿を見せているらしい。寝癖のついた爆発頭の航が、ジャージを捲くって腹を掻くところを想像してしまい、梨一はプッと好きだした。
「なんだ?」
航が訝しげに片眉を引き上げる。梨一はそれとなく目線を外しながら、別にと答えた。
「あれ? お前うちに寄ってくれたの? もう店閉まってただろ?」
夕方の川べりに不似合いなスタイリッシュ男は、手に小さな紙袋をぶら下げていた。白地に桜の花をあしらった、パティスリー佐倉のロゴ入り紙袋だ。
「ああ。せっかくだから持って行けっておばさんが持たせてくれたんだ。食うか?」
「うん」
「待ってろ」
航はそう言うと、紙袋を梨一に預け、どこかへ消えた。そしてまたすぐに現れ、缶コーヒーを手渡しながら隣に腰を下ろす。
「さすが主任は気が利くな。サンキュー」
缶コーヒーに口をつけ、ガサガサと紙袋を漁る。中身はフロランタンだった。
パッケージから出して一口齧ると、土台のクッキーが口の中でほろりと崩れ、アーモンドの香ばしさとキャラメルの甘苦さが口中に広がった。
パティスリー佐倉のフロランタンは、キャラメルに少量のジンジャーパウダーが混ぜ込んである。甘過ぎない、大人の味だ。何度となく口にしてきたお菓子だが、航と二人で、こうして川を眺めながら食べると、また違った味わいがあった。
「美味いだろ?」
なぜか誇らしげに問われ、気恥かしいような、落ち着かない気分になる。そんな心の内を見透かされるのが嫌で、梨一はフンと鼻を鳴らした。
「当たり前だろ。うちの親父が作ったお菓子なんだから」
「この前のも食ったのか?」
「食ったよ。昔とおんなじ味だった」
「そうか」
航がフロランタンを齧り、美味いなと軽く笑む。笑顔も凛々しい男が手にしているのは、缶入りコーンスープだ。洋菓子にコーンスープ。どんなセンスだよと、梨一は声を上げてあははと笑った。
地面スレスレまで落ちていた気分が、笑った事で少し浮上する。笑みの残った顔で隣の男に目をやると、航はやけに真面目な顔つきでじっとこちらを見つめていた。
「……何?」
「店の事、さっきおばさんから聞いた。どうするつもりなんだ?」
「あのおしゃべり……」
息子の自分でさえ昨日聞いたばかりだというのに、もう航に話しているなんて、口が軽いにもほどがある。
「どうもこうも、もう決まった事なんだからしゃーねーだろ。ああ見えてうちの親父、めちゃくちゃ頑固だからな」
昨夜の父は、こちらが戸惑うほど冷静だった。もしかしたら駅前の再開発はきっかけに過ぎず、父の中では自分の代で店を畳む事を、決めていたのかもしれない。
「親父さんがやらないなら、梨一がやればいい」
「あのなあ、そう簡単にいくかよ。後を継ぐとか無理に決まってんじゃん」
「別に決まってはない。お前がどうしたいかが大事なんじゃないか」
「お前、俺に菓子作りの才能があると思うか? 十年近くこの仕事やってて、いまだに焼き菓子とカスターしか触らせてもらえてないんだぞ」
吐き捨てるように言い、食べかけのフロランタンを口の中に放り込む。苦みが絶妙なキャラメルも、口の中でほろほろと崩れるクッキーも、文句なしに美味しい。今の梨一には到底超える事のできない味だ。
「知ってる」
「じゃあ、俺が継ぐなんてあり得ないってわかるだろ。……もういいよ、この話はこれで終わり」
これ以上自身の不甲斐なさを思い知らされるのはごめんだった。強引に話を切り上げて立ち上がろうとするも、不意に伸びてきた手に阻まれてしまう。
「おい――」
「お前が努力してるって、親父さんだってちゃんと知ってる」
手首を掴まれ、シャツの袖を引き上げられた。航の視線は梨一の腕の内側に向けられている。彼が見ている場所がどこか気づき、梨一は下唇を嚙みしめた。
舌触りのいいカスタードクリームを作るためには、鍋を強火にかけ、とにかくひたすら混ぜる。木ベラで延々と掻き混ぜているうちに、熱したクリームが撥ね、どうしても袖口を火傷してしまうのだ。水ぶくれを作っては軟膏を塗り、同じところをまた火傷する。何度も繰り返してきたせいで、梨一の腕は皮膚がところどころ赤茶色に変色していた。
「また火傷したのか? これ、この前はなかった」
「っ……!」
シャツを捲くられて露になった腕に、航の吐息がかかる。少し冷たい指で火傷の痕をなぞられ、なぜか項の辺りがゾクリとした。
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