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友を失った話をしようと思う。 名を南という。彼は紀伊熊野の出身でした。 背は私より頭一つほど低く、肩幅は広く、胸板は厚かったのです。特に運動をしていないと言っていましたが子どもの頃から山上りや川遊びをしていたそうです。靴を水浸しにしてしまうので夏は下駄を履いていたとか。サンダルは合わないと言っていました。 運動が出来るかどうかを意識すらしたことがないというのは運動神経が人より良い者です。 彼は読書家で、その事がきっかけで親しくなったのですが本に対する扱いが違っていました。 私が本から本へと知識を深めていくのに対して、彼にとって知識とはただの材料でしかないようでした。自分が見聞きしたものの確認や補填でした。平たい台の上に、見聞と本からの知識を並べ、料理をするかのように。 膨大な記憶の断片が舞い上がり、ジグソーパズルのようにあるべき場所にはまると。 南はあるとき熊野古道の話をしてくれました。 何の流れでそうなったのか失念しました。 漢字の字面では、苔より羊歯派だとまるで内緒話をするかのように。 それは、苔の方が好きだという前提ありきの発言でした。 コケ類と思われている○○コケという名のものでも、バクテリアや細菌の場合があること。新種は慎重に観察すること。古来より苔とされてきた物の中にも、意思を持つかのような動物性粘菌が含まれるのではないかということ。 私は苔に対してそう思い入れも無かったので聞き流していました。 「聖域が女人禁制というのはな、女性が穢れだとか煩悩をどうこう、というよりもっと原始的に。女性が良くないものというより、良くないものが女性の姿をとって紛れ込むのだよ」 南の自説は革新的で面白く飽きません。不敬で冷や汗をかくこともありましたが。 便りは途切れ、検閲の厳しい世情ゆえ、彼がおとなしくしてくれているほうが無事なのだろうと思うことにしておりました。 終戦のあと、ひょっこりといった調子で彼の様子を知って、らしいなあと思いながら喜び、少し泣きました。 お前の実家には遺影と遺骨があるそうだ、と言うと、全くだよ、誰のか知らんがなあとぼやいていました。 平常時でもどこで野垂れ死んでもおかしくないと思われていたのだろう、と他人事のように言っていました。
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