恩師

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樋口教授から珍しく新作能を見に行かないかと誘われました。酒の席でのことでした。 「これが何かわかるかい」 取り出された写真には浅瀬に丸い岩が浮かんでいました。 「ストロマトライトという、細菌と砂が層となったものだ。」 「細菌、ですか」 stromatolite,藍色細菌と書いてある。 「そう、生命の神秘だね。このおかげで太古の地球に酸素が生まれた。細菌、バクテリア、苔類……小さな物の強さは我々の脅威だよ」 「彼らはどこから来たのだろう」 樋口教授は、いつになく饒舌でした。 「宇宙から原始の植物や生命体が来たという説が有ったんだ。日本では取り合わなかったけれど。 初めに苔の研究者が引用したので、宇宙船のアダムスキーになぞらえてコケムスキーと揶揄れて。あとはまともな研究がされなかった。」 苔の話を聞いて、引っかかるものがありました。 南も、苔の生命力や粘菌の話をしていた。 「東大寺の修二会、お水取りを君と見に行きたい。あれは、死者を弔う儀式なんだ。いや、死者ではない。 若水と不死の話は知っているね。」 先生を自宅に送る車内でも、先生は話していました。 「先生、お水をどうぞ」 半ばもたれかかるように座る教授を起こし、水を飲ませました。少しこぼれたが仕方ない。 新作能の題は「青衣(あおころも)」 青年僧が経を唱える場面から始まる 「空実也、実空也、波羅密多、実也愛蜜多……」 空(くう)は実(実)なり、実は空なり…… 青年は過去帳の戒名を読み上げる供養法要をしていた。 そこに青い衣の幽霊が現れ、 『なぜ私を忘れたのか』 と問う。青年が咄嗟に『青衣の女人』と読むと満足して消えたーーーーーー 数十年後、ある山中で乱心した僧が妖怪になり村人が困っているという。 高僧が鎮めたところ、妖怪は青年僧の変わり果てた姿だった。稚児への愛に狂い変化した。自分を恥じ、琵琶を掻き鳴らして消えた。残されたのは青い頭巾。 「既視感しかないだろう」 少し酔いが醒めたらしい教授がネクタイを弛めながら笑みを浮かべました。 「東大寺の修二会の怪談と、もう一つは」 「雨月物語の『青頭巾』ですね」 「そうだ。君のそういう勘の良いところが好ましい。青に関する怪異というのは多い」 いつものように、酔いざましの緑茶を入れることにしました。 「修二会の行われる二月堂の本尊は、秘仏なんだが、客人神(まれびとがみ)だと言われている」 「ああ、それで弔いだと先生はおっしゃったのですね」 水死体のことを、恵比須や客人神という。 「それだけではないけれど。補陀落山から来たと言われている。 補陀落渡海だよ。熊野の」 東大寺のお水取りが若狭から続いている水路という伝説は、若狭地方から丹(水銀)を調達したからだという。その功に報いるために。 東大寺の建立、再建においてあらゆる地方から物資が、人が集まったとして。 熊野は、何を献上したのだろう。 私は、南からその答えを聞いていた。先生もおそらく知っていらっしゃる。 「おや、茶葉を変えたのかい」 「先生が変えられたのでしょう。僕のために」 そういって、近づいた。 「わかっていて罪を犯すのは、戒律を知らずに破るのより罪深いのでしょう。先生が教えてくださったんですよ。認識の罪。 誤犯、ですよ」 先生の喉仏が上下した。 ああ、造作もないことなのだな。 尊敬する恩師の唇が、触れた一瞬強ばるのを感じた。 あの日の自分を見ているようだった。 僕の手の黒子が、先生の手に移ったのを見た。
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