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「来なかったね」
夕焼け小焼けが鳴りやんでも何も言わない恋人に、私はもう一度同じ言葉を投げかけた。それでも彼は曖昧に微笑んで見せる。さっきまでの調子はどこに行ったのだ。
「もう帰ろう」
約束が守られなかった事実から少しでも早く抜け出したくて、私は彼の手をとり、来た道を戻ろうとする。それでも動かないカズアキ。ここまで来ると、訳が分からない。
「あっちゃんは来なかったの。だから帰ろう?」
少し声が上擦る。何だか泣きそうだ。たかだか子供の時分の約束に、どうして私はこんなに心を費やしているんだろう。
カズアキの顔をもう一度見る。彼も真剣な眼差しで私を見返し、そしてどうしてかあからさまな溜息を吐いた。
「……カズアキ?」
「あっちゃんなら、ここにいるよ」
「……は?」
カズアキの予想だにしない発言に、私は思わず間の抜けた声を出した。
ここに、いる?
あっちゃんが?
「あんなに泣いたのに、るーちゃんは分からないんだね」
目前の恋人の言葉に、瞬間的に鼓動が早くなった。軽く息切れしているかのようだ。
るーちゃんと言うのは、私の幼い頃のあだ名だ。ヒカルのル、だけ取ったあだ名。態々最後の文字を取ったのは、誰も呼んでいなかったから。二人だけの特別な呼び名だから。
あっちゃんと私、だけの。
「……あっちゃん?」
「そうだよ。俺があっちゃんだよ」
辺りは、少しずつ日が落ちてきていた。くすんだ住宅棟が赤く照らされ、まさに夕焼け小焼けだ。カズアキの顔も赤く照らされている。私は懸命に、その顔に幼馴染の面影を探すがどこにも見当たらない。
「だって、あっちゃんは女の子だし」
むしろ、絶世の美少女だったし。私がそう言い募ると、カズアキはバツが悪そうに頭を掻く。
「母親が、女の子が欲しかったらしくって。小学校に入るまではっていう約束で女装させられてたんだよ。ばれちゃいけないからあんまり喋れないし。幼稚園にも通わせてもらえないから、友達なんか全然できなかったし」
今思えばこれって、一種の虐待だよな。自分の思い出話にカズアキは苦笑する。けれどそんな彼に構っている余裕なく、私はひとつひとつの事項を符合させていく。私の記憶と彼の主張は、矛盾し合ってない。不格好なピースが、少しずつかみ合っていく。
単純だと思っていた私の恋人は、実は相当な曲者だった。本当に、何となく分かっていると思っているということは、ちゃんとは分かっていないということだ。
「カズアキは、私がるーちゃんだってこと、最初から気付いてたの?」
「そりゃあ、勿論」
私の問いかけに恋人兼幼馴染は、自信満々に胸をはる。
「るーちゃんは初恋の相手だし」
「そうなの?」
突然の告白に、つい声を上擦らせる。私もあっちゃんのことが大好きだった。でも彼女、いや彼の好きは、私のそれとは違う種類のものだったのか。
「引っ越しの話が出た時は、本当に悲しかった。るーちゃんに自分を忘れられたくなくて、必死だった」
少し遠くを見て話すカズアキの横で、私はその向こうに二十年前の今日を思い出す。泣いて別れを拒否する私。困った表情の幼馴染。悲しいのは私だけだと思っていたけれど、そうではなかったのだ。
「まさか、入社した同期にヒカルがいるとは思わなかったんだけど」
「そうだよ! 何で今まで話してくれなかったの?」
急に普段の呼ばれ方に戻り、私は我に返って急に恥ずかしくなった。
一昨日の晩のやりとりだって、考えてみればカズアキが仕掛けた茶番じゃないか。何が『幼馴染は、ヒカルみたいに薄情じゃないかもしれないしね』だ。じぶんばっかりちゃっかり覚えていやがって。
「いやぁ、覚えていないヒカルを見てるのも楽しかったし」
いたずらっ子のように笑う恋人を睨み付けると、それに、と彼は言葉を続ける。
「今日、渡そうと決めていたものがあったしね」
そう言って彼は自分の鞄に手を突っ込み、をがさごそとする。
周囲は夕暮れ時も終わりかけ、空が群青色に塗り替わり始めていた。寂れた場所だが、住宅棟の窓に、ちらほらあかりが灯り始める。また、この団地は終わっていないんだ。私と幼馴染の、物語のように。
「これを、るーちゃんと別れる時から、今日、渡そうと決めていたいんだ」
そう言って、カズアキは鞄から小さい箱を取り出す。掌サイズの、濃紺のベルベット地に包まれた箱。定番過ぎて、中身は予想できる。予想できるけど、ことの展開に、痛いほど心臓が高鳴る。
「僕と結婚してください」
言葉と同時に開かれた箱の中で、きらりと指輪が光った。こみ上げてくる感情が、私の頬を濡らす。
二十年後の八月三十一日、午後五時をかなり過ぎた頃。
幼い私と友人との再会話は、今度こそ本当に幕を落とした。
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