5 絶対なんてない

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「遅いよ。」 誠一は俺の顔も見ないまま、一言だけそう言った。 声色で不機嫌さが伝わってくる。 急に呼び出しておいてこの有様だ。 俺は小さく息を吐いた後でコートを脱ぎ、もう既に出来上がっているであろう、ほんのりと頬を赤く染める奴の隣に座った。 「あんまり飲むなよ。明日仕事だろう?」 「うるさい……」 誠一は俺の言葉に反発するようにグラスの残りを一気に飲み干した。 俺たちの他に客は誰もいないバーラウンジに、グラスの中に残された丸氷がカラリと音を響かせた。 「何怒ってるんだよ。せっかく来てやったのに。」 相変わらずの不機嫌な顔を覗き込むと、誠一は睨みつけるように俺を見やった後で、わざとらしく大きな溜息を吐いた。 「孝太郎が居るって知っていたら、違う病院にしたのに。」 やっぱりな。どうせその事だと思った。 普段はヘラヘラ笑っているおまえが感情を剥き出しにする時はいつだって孝太郎の話だ。 「仕方ないだろ。あいつも言ってたろ?急用が出来たからって。それにこっちだって、まさかおまえが居るとは思わなかったんだよ。」 「それはそうかもしれないけど……口から心臓が飛び出すかと思った。」 「大袈裟だな。孝太郎に会うのいつぶりだっけ?」 「1年半ぶり。聡太郎が僕を騙して、クリニックに連れて来た以来だよ。」 「騙した訳じゃない。あの時も仕方なかったんだよ。急に歯が痛いとか言い出すからさ。知り合いの歯科医は誠一しかいないし。」 「別に近くの歯医者でも良かっただろう。絶対わざとだ。聡太郎はたまに意地悪だから。」 誠一はもう一度深い溜息を吐いた後で、手元にある空になったロックグラスに手を伸ばした。 細く長い骨ばった指先が中の氷をくるくると回して、その熱を受けてゆっくりと表面が溶け出していく。 「冷たくないの?」 「冷たいよ……」 「そんなに拗ねるなよ。子供じゃねぇんだから。」 「別に拗ねている訳じゃない……」 誠一は呟くようにそう言って、頬杖を付きながら溶けていく氷を見つめていた。 「なぁ……」 暫くの沈黙の後で、俺はもう一度誠一の顔を覗きこんだ。 「変わらないよ僕は。」 「まだ何も言ってねぇよ。」 「言わなくてもわかるよ。その質問、そろそろ飽きないかなーって思ってるくらいだ。」 「もう10年だぞ。」 「まだ9年だよ。」 溶けていく氷から視線を外さないまま、誠一は静かにそう言った。 切ない横顔…… もうずっと見続けてきた表情だ。 「まぁ、いいや。それよりあの子はどうするんだ?」 「え? どの子?」 「おまえ……相変わらずだな。おまえの下半身のお友達じゃなくて一緒に住んでいるあの子だよ。」 「あぁ、ひなくん? ひなくんがどうかした?」 彼の名前を口にした途端、誠一の声が明るい声色に変わった。そしてようやく俺へと視線を移すと、いつもの柔らかな笑顔を向けた。 「どうかした? じゃなくて、いつまで一緒に暮らすつもりなんだ?」 「んー……特に決めてはいないよ。ひなくんと居ると楽しいしね。」 「でも、いつまでもって訳にはいかないだろ?」 「いかないかな?」 「そりゃそうだろ。彼には彼の人生があるんだから。」 「まぁ……そうだよね。」 明るい声から一転、今度は寂しそうな声だ。 彼は思った以上に誠一にとって大切な存在なのだろうか。
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