5 絶対なんてない

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「はぁぁ……」 深い深い溜息と共に朝がやってきた。 窓から差し込む眩しい光はまるで拷問のようだ。 結局、一睡も出来なかった。 里村さんから聞いた話を思い返しては、複雑な、やり場のない気持ちをどうする事も出来ないでいた。 ただ早く、一刻も早く、咲間さんに逢いたくて逢いたくて仕方なかった。 けれど、いくら待っても彼は帰って来なかった。 そうして気付けば朝を迎えていたのだ。 ーーーーーー 「逆行性健忘症……?」 「簡単に言えば記憶喪失ね。記憶喪失にも色々あるみたいなんだけど、孝太郎さんの場合は事故の前の記憶がなくなる逆行性健忘症というものだったの。」 「事故……記憶喪失……」 「確か……もうすぐ10年になる筈よ。詳しくは知らないけど、交通事故で頭を打ったって聞いたわ。」 「記憶は今も戻らないままなんですか?」 「そうみたいね……。 個人差はあるらしいけど、大抵は一時的なものらしいの。でも、孝太郎さんみたいに稀にずっと記憶が戻らない人もいるみたい。 それに……」 「それに?」 里村さんはそこまで話すと一旦口を噤んだ。そうしてゆっくりと息を吐き出し、躊躇いの表情を浮かべながらも重い口を開いた。 「先生との記憶だけが戻らないのよ……」 「え……そんな事って……」 「残酷よね。とても……。それに記憶喪失には絶対がないから。」 「絶対……」 「何年経っていたとしても絶対に記憶が戻らないとは限らない。何かをきっかけに戻るかもしれないし、一生戻らないかもしれない。先が見えない事に希望を持ち続けるのはとても大変な事よ……」 「そうですね……」 俺は呆然としたままそう答えた後で、何も言えなくなってしまった。 ーーーーーー 孝太郎さんはきっと、咲間さんの大切な人なんだと思う。 里村さんは知らないのか、俺に言ってはいけないと思ったのかはわからないけれど、咲間さんと孝太郎さんの関係については何も話さなかった。 でも…… 「恋人……だったのかな……」 口から溢れ落ちた自分の言葉に胸が抉られるように痛んだ。 もしもそうだとしたら…… どんなに辛いだろう。 どんなに苦しいだろう。 頬に触れた時に聞いた名前を呼ぶ切ない声や、病院で見た、ぎこちない笑顔を思い出してやるせない気持ちで一杯になった。 10年もの長い間、孝太郎さんの記憶が戻るのをずっと待ち続けているとしたら…… 一番大切な人の人生から自分が消えてしまったとしたら…… 想像するだけで涙が溢れた。 俺なんかが泣いていいような事じゃないのに。 唇を噛み締めて必死に涙を堪えた。 頭の中が咲間さんの笑顔で一杯になって、堪えても堪えても次から次へと涙が溢れ落ちて止まらない。 「逢いたい……」 逢ったからといって、俺に何か出来る訳じゃない。 きっと何も出来ない…… それでも逢いたい。 知らなければ良かったなんて思いたくない。
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