1 歯フェチって何ですか?

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1 歯フェチって何ですか?

「ひなくぅ〜ん……ただいまぁ〜。」 午後22時を回った頃、玄関から聞こえてくるふにゃふにゃとした気の抜けた声に、読んでいた本を閉じてソファーから立ち上がる。 「おかえりなさい。あの、いつも言ってますけど取り敢えず靴を脱ぎませんか?」 「んー……もう動けない……ここで寝る……」 「はいはい。わかりましたよ。ほら、足あげて。」 いつものやり取りに溜め息を零した後で、いつものように靴を脱がす。無駄にだだっ広い玄関に大の字に寝そべるその姿はとてもだらしがない。 半分だけ開いた目で、甘えた声で、「いつもごめんねぇ……」とひとつも悪いと思っていない顔で言う。 いかにも高級そうなネイビーのスーツに、上品な光沢が美しい、こちらもきっと恐ろしく高いであろうキャメルブラウンの革靴。きっちりと整えられた髪、左手薬指にハマる光り輝くシルバーリング。 そんな風体の男が靴を脱がせてもらっている姿は何とも情けなく、滑稽だ。当の本人は何とも思っていないみたいだけど。 「ほら、ちゃんと起きてよ。咲間さん……」 「……ねぇ、いい加減、その咲間さんっていうのやめてくれない? 誠一でいいよ。」 眠そうな目を擦り、彼は少し掠れた声でそう言った。そして俺に向かって長い両手を伸ばし、起こしてくれと言わんばかりに目で訴えてくる。これもいつもの事だ。俺はふぅと息を吐いた後で、仕方なく彼の手を掴み身体を引き起こした。 「へへ。ありがとう。ひなくん、ただいま。」 「さっきも聞きましたよ。ほら、ちゃんと立って下さい。」 「はーい。」と間延びした声で返事をして、彼はようやく立ち上がった。 「咲間さん、靴下左右で違いますよ。」 「あ、本当だ。全然気が付かなかった。」 そう言ってヘラヘラと笑う彼を見て、俺は呆れながらも仕方なく笑みを返した。 こんなやり取りが、もう1年近く続いている。 咲間 誠一(さくま せいいち)36歳。彼は超絶テクニックを持つ歯科医としてちょっとした有名人だ。8年前に28歳の若さで開業。確かな技術で瞬く間に噂は広がり、初めての雑誌取材でその端正な顔立ちと抜群のスタイルが露出されてからはその人気はうなぎ登りで、予約の取れない歯科としても有名だったりする。 今正に順風満帆な「さくまクリニック」の院長さまが、まさか家ではこんなにだらし無い姿を晒しているなんて誰も知らないだろう。 そしてそんな〝院長さま〟の世話をするのが俺の仕事だ。と言っても、掃除や炊事は家政婦さんがやってくれているから、俺の仕事は毎日靴も脱げない程疲れて帰ってくる彼を出迎える所から始まる。出迎えは元々仕事ではなかったのだけれど、いつのまにかそれが当たり前になっていた。 〝 始まる 〟といった通り、俺にはこの後最も重要な仕事が控えている。
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