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3日目
突然だが、今日からは、模写する画像を変えることにする。
はじめから書いている通り、私の目標は薔薇の絵を描くことだが、実のところ、1から描くつもりはもとより無い。
私の計画は、今の表紙に近い構図の、規約の緩いフリーの写真素材を見つけてきて、それを模写するというものである。
ただし、当初の予定は、まずいかにも薔薇らしい写真を使って練習して、それからちょっと変わった構図の模写をしよう、というものだった。しかし、ここまで2日間練習してみて、その計画では間に合わないと感じた。
そこで、今日からは、最終的に描きたい画像を使って練習してゆくこととする。過学習万歳、というわけである。
その画像というのは、このエッセイの表紙にも使っている下の写真である。
この写真そのままを使うのは、やはり難しいので、加工した次の2つの画像を使う。
1つ目の画像は、元画像の明るさやコントラストなどをWordで変更して、花以外の部分を透過しただけの画像。
2つ目は、1つ目の画像をスマートフォンアプリで加工して、輪郭線が見えるようにしたもの。本当は、1日目に作ったような、線画風の画像が欲しかったのだが、papercameraが端末内の画像を読み込んでくれなくなってしまったので、仕方なくペンシルスケッチというアプリを使って加工した。
今後はこの画像を使って練習するが、その前に、今小説の表紙に使っている絵の方をトレース・模写した。これについては、著作権的に問題がありそうなので、ここには載せない。
絵のトレースをして感じたのは、自分がどうしても情報の取捨選択をしてしまっているということである。
先日、ある画家の個展を見に行った。その方の絵はとても写実的で、それでいてどこか夢見るような、ここではないどこかを描いているような、そんな透明感があって、本当に美しい絵だった。
その中に、透明なケースに入った陶器を描いた作品があった。
その絵の中には、陶器の影、ケースに映った鏡像までもが、精密に描き込まれていた。
絵の中では、陶器そのものも、その影も、鏡像も、なべて皆絵の具の塊であり、そこに質の違いは無いはずだ。
それにもかかわらず私は、無意識に陶器の実像部分ばかりを見て、その絵を見たような気になっていたのだった。そのことに気付いた時、自分の中にある拭えない固定観念を目の当たりにしたように感じて戦慄した。
今の表紙絵のトレースをしているときにも、その時と似たような気分になった。
表紙絵は、私が目指す絵そのものなのだから、原理的に言えば、その全てを写し取れば良い。黒く見えているところを黒くすれば良いだけなのだ。しかし、実際には、そういう風にはできない。情報を取捨してしまうことを、私はどうしてもやめられないのだ。
ところで、今回は、トレースにはクッキングペーパーを用いた。以前、トレーシングペーパーとクッキングペーパーは似たような物だと聞いたことがあったので、流用してみたのだが、これが中々良かった。
コピー用紙やルーズリーフとは全然違う。
よく見えるので、思わずスマートフォンの明るさの調整を忘れていたくらいである。
しかし、実際は、紙をどけてみると結構抜けている線があった。
絵のトレースをしてみると、影の部分の重要性というのがよく分かった。輪郭線というよりは、影の境界として描かれている部分が多分にあるのだなということを学んだ。
そういうわけで、今回は、これまであまり見てこなかった、影の部分にも注目して描いた。下の写真で、上が輪郭なしの画像、下が輪郭ありの画像をそれぞれトレースした物。
クッキングペーパーは、下の物が見えやすいのは良いが、気を抜くとすぐに丸まってしまうのが難点である。
模写は、輪郭ありの画像でだけ行った。それが下の写真である。
左側に少し見えているのは、花の形を単純化したら面白いんじゃないか、と思ってやってみたが、上手くいかなかった物である。そういう応用はちゃんと基礎を作ってからしましょうね、という声が聞こえた気がした。
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