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第36話
「これだから、人間相手の仕事はやっかいだ」
ヴォウェンは、俺の後ろに隠れたルーシーに声をかけた。
「ルーシー、戻ってこい。今戻ってくれば、こいつらもお前も、俺が何とかしてやる。この俺がそう言ってるんだ。分かるだろ?」
彼女は、俺の右腕のシャツをぎゅっと握った。泣きそうな顔で、頭を左右に振る。
「お前の名前は、ヘラルドとか言ったな、なんだこれは、法令違反ごっこか」
「違います。そんなつもりじゃなかったんです」
「じゃあなんだ」
その答えは、俺にだって分からない。
「……成り行き、かな」
「その割りには、ずいぶんと高い代償を払うことになったな」
「俺は、そうは思いません」
彼は手袋を締め直しながら、ゆっくりと近づいてくる。
このまま、距離を縮められたら、マズイ気がする。
「動くな」
後ろに下がろうとした俺を、彼は牽制する。
俺は必死で、頭を回転させ言い分けを考える。
「理由なんて、ありません。ただ、そうなっただけです。誰かが文句を言って、不満があって、それをどうにかしたくて、方法が分からなくて」
逃げようと反射的に背を向けた瞬間、俺の足がなぎ払われる。
地面に倒れこんだ背中に、ヴォウェンの片足が乗った。
「ルーシー、こっちに来なさい」
ヴォウェンの声に、彼女は固く握りしめた拳を、胸の前で振るわせている。
「ルーシー、君はとても賢くて勇敢な女の子だ。私は君のそういうところを高く買っている」
背にかかる足の重みが、ぐっと重力を増した。
「君がちゃんとカプセルに入ったら、他のみんなも入ってくれるかな?」
彼女は助けを求めるように、地面に伏せられた俺を見る。
「カプセルに入るのは、絶対にダメだ、ルーシー」
「そんな教育を、どこで受けた。お前たちに、そんな選択をする権利はない。俺もクローンだ。何度も再生をくり返している。記憶を見たければ見ればいい。人は個人の歴史からも学ぶことが出来る」
彼は一つ、息を吐いた。
「今や、オリジナルの人間といえるのは約2千人。そこから絶滅の危機を乗り越えるために、しなければならないことはなんだ。血統管理と手厚い保護。そこから生まれてくるはずの、新しい可能性を、潰さないこと」
もう一度、息を吐く。
「俺たちは、その希望であり、無限にあるはずの可能性なんだ。だから、俺たちは限りなく増殖し、再生をくり返す。新しい、この先の未来のために」
「そんなこと、ルーシーには関係ないだろ」
俺はなんとか立ち上がろうと、腕を突っ張る。
「あんたのそんな、もっともなご高説なんか、俺たちには関係ない」
ふいに背中の重みが取れたと思ったその瞬間、脇腹に激痛が走った。
痛みにうずくまる俺の体に、なんども固い靴底が打ち付ける。
口の中から血の味がして、俺はつばを吐き出した。
地面を駆けてくる足音が聞こえる。
頭上で何かが、激しくぶつかり合う音が響く。
ヴォウェンに殴りかかったジャンが、彼から返り討ちにされていた。
「ジャン!」
俺はそこから抜け出す。
「いいから、さっさと行け! どこまでいけるか知らねぇけど、どっかにはきっと行けるだろ」
ジャンの左頬に強烈な拳が入り、彼の体は、再び地面に投げ出される。
俺は、ルーシーを見上げた。
彼女の方が先に、俺の手を引く。
「ジャン!」
悲痛な叫びが、空に響く。
ヴォウェンの放った弾丸が、彼の体を貫通した。
「いいから、俺たちの分まで、いってくれ」
「止まれ、止まらないと、こいつは死ぬ」
俺は彼女を振り返る。
彼女も俺を振り返った。
走り出した俺たちを、止めるものはもうなにもなかった。
銃声が響く。
ジャンの体から拭きだした血液が、みるまに草地に赤い血だまりを作る。
追いかけようと動き出した蜘蛛を、制止したのはヴォウェンだった。
「放っておけ。追いかけたところで、どうせ止まらない」
彼は走り出した俺たちに向かって、そっとつぶやく。
「俺の判断に、間違いはあっても迷いはないからな」
彼が背を向ける。
俺たちは、走り出した。
走って走って、やがて息が切れてくる。
西に傾き始めた陽の光が、とてもまぶしい。
俺たちの目の前には、底の見えない断崖絶壁、その向こうは広大に広がる、荒れた海だ。
「ルーシー!」
「ヘラルド!」
迷いなんて、何一つない。
俺はそこに飛び込んだ。
彼女も同時に飛び上がる。
俺は笑っていて、彼女も笑っていた。
新しい物語が、はじまった。
【完】
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