第9章 アウトオブコントロール

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そうか、つまり。もしかしたら彼が思いつきのように性急に結婚を決めたのは、香那さんにそう言われた当てつけみたいなところもあるのかもしれないな。 きっと内心で相当傷ついたに違いない。まあ、気持ちはわからなくもないかも。あなたもいつか結婚すればわかるわよ、とか宥めるように声をかけられて。その相手は自分じゃない設定なんだよな、じゃあ僕は誰と結婚すると思ってるんだ?軽い気持ちで無責任にそんなこと言って。僕に好きでもない、この世でたった一人の特別な存在じゃない女と一生を共にしろって言ってるのか?ってきっと腹に据えかねたんだろう。 そんな状況の最中に、たまたま偶然、わたしが酔っ払って開帳した結婚に対する適当な考察を耳にして。そういう考え方もあるのか、と目から鱗な思いを抱いたって次第なのかも。 必ずしも恋愛関係の相手と人生のパートナーを組む必要はないんじゃないかって言われたら。他に絶対譲れない恋の対象がいたとしても自分にも結婚するチャンスはある。もちろん相手がそんなこと、思いもよらないって女性だったら駄目だけど。 何しろわたしはその結婚論を展開した当の本人だし。声をかけて詳しく話を聞いてみると全く恋愛に関心がなくて誰のことも好きにはならない体質らしい。それならこの女と入籍して夫婦になったとしても、誰に対しての裏切りでもないし傷つく人物もいない。 そう閃いて、何はともあれ試す気になったんだと思う。香那さんの言う、何があっても簡単には解けない固い夫婦の絆ってやつを。 …まあ、どこか飛躍というか。論理的に無理がなくもない気もするけど。わたしは表情には出さずにこっそりと胸の内でそう呟いた。 だいいち、香那さんが言ったのはこれまでの夫婦二人の経緯、出会いや馴れ初めや恋に落ちた記憶なんかも含めての全ての歴史が積み重なって今の結びつきがある、って話だったと思うし。その年月を別の誰かにふと気持ちを惹きつけられたからってそれだけで簡単には否定できない、ってことでしょ? そしたら二人の関係に必然性も歴史の積み重ねもない、急拵えの夫婦であるわたしたちが。一応戸籍上きちんと形式に則ったからって、一朝一夕に同じ境地に達するってわけには。どう考えてもそんな簡単なもんじゃないって思う。…んだけど…。 でも。わたしは顔を逸らすように傍らの窓の方に顔を向け、すごい勢いで流れ去っていく代わり映えのしないどこまでも続く濃い緑の林を目で追いつつ考えた。 そういう理詰めの話じゃなくて。星野くんには本当は、香那さんを傷つけたい気持ちがどこかにあったのかもしれないな。 誰とでも結婚しろ、って言われたから好きでもない適当な女と結婚してやった。これで気が済んだのか?それで君は満足なんだろ? そうはっきり言葉にはしなくても。心の奥深くに押し隠した本音では実はそういうことだったのかも。でも、仕方ない。 人間なんて感情に流されて後先考えない行動に出ることだってあるし。今のところそれですごく酷い目に遭った人もいない。衝動的な決定の結果としてはそう取り返しのつかない事態でもないし、よしとしなきゃいけない。と思う…。 「…わたし、あんまり気にしないよ。星野くんが結婚しようと思った動機が何だったとしても」 感情をぶちまけたことを少し後悔してるのか、気まずく口を噤んでいるらしい彼の気持ちを推し量ってとにかく言葉を探す。 「わたしの方は、別に誰と結婚する予定もなかったし。今のところは星野くんと暮らすのは楽しいし、思ってたよりずっと家の居心地もいいから。…どうせそろそろ実家を出て、独立しなきゃいけなかったと考えたら。ひとりで味気なく暮らすより、二人で住む方が。…自分は他人と気兼ねなく暮らせるようなタイプじゃないと思い込んでたけど。想像してたよりずっとこういうの、悪くない。と思った」 彼がわたしの言葉に我に返ったみたいに反応してるのがわかったけど。そちらに顔は向けないまま先を続ける。 「この先どうなるかなんてわたしにもわからない。十年、二十年と経ったら星野くんと香那さんの状況も心情も、今とは全く変わってるかもしれないし。やっぱりどうしても惹かれ合うもの同士、一緒になって添い遂げたいって二人とも考えるようになってるかも。…でも、そうなったらその時はそのときだから。それまでは、わたしの方は多分。このままあなたのそばにいるよ」 「種村さん」 やっぱり下の名前はまだ呼び慣れてないから咄嗟には出てこない。彼はいつも通り、思わずといった感じでわたしの旧姓で呼んだ。 こっちはどっちでも殊更気にはならないから。構わず話の先を続ける。 「相変わらず特に誰かのことを好きになりそうな気配もないし。星野くんの他には、一緒にいて気持ちが楽だと思うような他人もそんなにはいないや。だから、あなたがわたしがいた方がいいと思う間は。とりあえずこのままでいようよ。解消したいと思ったらその時は遠慮なく申し出てくれていいから」 「そんなことには。…ならないと思うよ」 星野くんが耐えかねたようにこちらの台詞を遮る。わたしは静かに首を横に振った。 「別に。それはそれで構わないよ。無理して二人そばにいなきゃいけないほどのことでもない。星野くんは本当にいたい場所をゆっくり考えて見つけて。それがわたしのとこでもあの人のとこでも。もしかしたら今はここにいない新しい誰かのとこでも…。別にわたしは行きたいところもないし。どれだけ時間がかかって出た結論でも。今さら?とか文句言うこともない。それはそれでわたしの方はちゃんと受け入れられるから」 そもそも感情の絡みがないからそんなに執着することもない。だから彼が、我慢してでもわたしのそばにいなきゃと思い詰めるほどのことでもないと思ってる。 なるべく淡々とした調子でそう告げると、彼は一瞬考え込むように黙った。しばらく息を詰めたように固まったのち、ふうと小さなため息を吐き、肩の荷が下りたように温かさを感じさせる柔らかな声で呟く。 「…うん。…本当にいろいろ、ありがとう。茜さん」 今度は名前。どうなんだろう、二人称をどっちかに統一する気はあるのかな。わたしの方は多分だけど『洋記さん』とは呼べそうもない。彼女が彼のことをそう呼んでる、って知ったら尚更。 まあいいや、それは。意地でもこれからも苗字で呼んでやる。お前も星野だろ、って百回周囲から突っ込まれる羽目になるのは今から目に見えてるけど。 しばらく沈黙がそのまま続く中、車は高原を降りて下界へ繋がる道をひた走っていった。だけど話を始める前より車内の空気はほんの少しだけ、微かな暖かさを帯びているみたいにわたしには思えた。
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