第9章 アウトオブコントロール

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深々と丁寧にお辞儀をしてくれる。わたしは慌てて頭を振って固辞した。 「そんな、全然です。結婚したとは言っても。…二人とも今まで通り、それぞれ自分の生活をって。それはちゃんと合意の上で。申し合わせのできてることですから」 この人がどれだけ星野くんのこと、ひいてはわたしたちの結婚生活について認識があるのかは知らない。だけど、その瞳の中にほんの少し、ふわと明かりが灯ったように感じたのは。わたしももしかしたら考え過ぎなのか。 「…そうなんですね。お若い方は。やっぱり、結婚とかに対する考え方も自由というか。柔軟なのかな…。あの、もしよろしかったら。うち、もうほんのすぐそこなので。ちょっと、寄っていらっしゃらない?」 …え、と。 すぐには反応できず戸惑いを隠せない。勝手に押しかけた招かれざる客だけど。どうなんだろう、受けるべきなのかな。むしろここまで来て先方の顔だけ見ていえ、時間ないです。とか言って立ち去る方が失礼? 彼女は美しく整ったその顔に微かな熱を浮かべて身を乗り出し、言い募った。 「せっかくここまでいらして下さったんだし。できたら茜さんと落ち着いてゆっくりお話ししたいけど…。それとも、この後何かご予定が?ご迷惑かな、お誘いなんかしたら」 「彼女は友達と一緒に旅行中なんです。僕の滞在してるところがたまたま近いんで、ちょっと好奇心で。みんなと別れてこっそり様子見に来てみたみたいなんですよ」 おっとりした声で口を挟んでくる星野くん。そんな言い方すると。なんかわたしが、後先考えずに先走ったおっちょこちょいな子どもみたいだ。事実そうか。 彼は柔らかな光を湛えた眼差しをわたしに向けた。 「どうする、茜さん?もしよかったら。ちょっとこの方のお宅に上がらせてもらって、お茶だけでも頂いて。それから僕、君を駅の方まで送っていくよ。それとも全然時間ない?友達、もう君のこと待ってるかな」 わたしは観念して頷いた。何というか。特に、断る理由が見当たらない…。 「…いきなり勝手に訪問しておいてご好意に甘えるみたいで、恐縮なんですが。お邪魔させて頂きます…」 ほんとに車ですぐそこだった。わたしは図々しくも助手席に乗せて頂き、星野くんは後部座席に。エンジンかけてほんの少し走って、すっと門の前で停まる。星野くんがさっとドアを開けて車を降り、勝手知ったる自信を持った動作で鍵のかかってなかった門扉の留め金を外して開いた。 ゆとりのある敷地内の駐車スペースに彼女が車を停める。お姉さんに大人しく従う弟妹みたいにわたしたちは並んで香那さんの後について別荘の建物に向かった。わたしはそっと彼に身を寄せて、こそっと声を落として尋ねる。 「あの方が。…例の、お客さん?いつも星野くんが。自宅を訪問してマッサージしてるっていう」 彼は意外にもあっさり首を横に振ってみせた。 「いや、違うよ。あの人は僕のお得意様の、家族なんだ。…多分君にも。このあと紹介してもらえると思う。ご本人の体調次第かもだけど」 「…ああ」 やっぱりね。と納得する言葉を黙って飲み込んだ。どう見ても健康そのものでどこにも不自由な様子は感じられないひとだなぁと。…そうすると、彼女は星野くんの担当するお客さんの娘さんとかで。身の回りのお世話をしてる、とかなのかな? だけど、声楽家だって話だった。よくわからないけど、ご自身のお仕事も大変だろうに。他にその方の介護をしてくれる家族とかはいないのかな。ご本人の奥さんとか…。 「…ほんとに可愛らしい奥さん。どうやって知り合ったの?洋記くん」 上品な手つきで供して頂いた紅茶をソーサーから恐るおそる持ち上げたところでいきなりの下の名前呼びに、動揺してカップを取り落としかける。…そうですか、そういえばそんなお名前でしたね。わたしなんか未だに、彼のことその名で呼んだことない、けど。…妻だけど。 でも、二人の間では苗字で呼ぶよりよほど自然なことらしい。星野くんは全く動じる風もなくさらっと受け応えた。そういえば、彼も彼女のこと最初から『香那さん』って普通に呼んでたな。どうやら相当付き合いは長い様子だ。 「最初に就職した会社の同期同士なんです。もっとも僕は一年ちょっとで辞めちゃって。…この人は僕とは全然違って、優秀なSEなんですよ。一緒に仕事してた頃から同期で一番できる人だった。見てたら、これは敵わないなぁって」 「全然そんなことないよ。…です」 初対面の人の前で遠慮なく持ち上げられて、身の置きどころがない。
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