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第9章 アウトオブコントロール
脳が完全にぽんこつ状態でろくに機能してなかった割には、わたしの脊髄反射はなかなか大した働きをしてくれたもんだと思う。
顔は星野くんの方へ向けたまま、手振りで背後の川田に向こうに行ってて、とさっと指示した。それから手早くポケットからスマホを取り出し目にも止まらぬ速さでLINEを打ち込み、送信。
『駅前に戻って時間潰してて。あとから合流する』
さすがに申し訳ない思いがこみ上げてきて、短く付け足す。
『ここまでつき合ってくれて助かった。この後絶対、いっぱい埋め合わせするから』
それから目立たない動きでさり気なくポケットにそれを戻す。軽い振動が腰骨に伝わってきたけどもう一度スマホを取り出して確認する余裕はない。川田から了解が送られてきた、と信じて今はそのままにしておくより他ない。
がち、と音がしてドアが開き、星野くんが車から降りてこっちへ歩いてきた。多分わたしの表情は緊張のあまり強張ってたんだと思う。彼の目がわたしの顔の上に留まり、気持ちをリラックスさせようとしてかふ、と緩んだ。
「…どうしたの?君も友達と旅行、って聞いてたけど。こんな近くにとは。…知らなかったから」
なかなか顔の強張りは取れないけど。口は勝手にすらすらと言い訳を紡ぎ出す
「友達が長野とかの高原に行きたい、って言い出したから。それならいっそ軽井沢にしようかなって。運転できる子もいないし、新幹線一本で来られるからってことで…。そうなったら、星野くんもこの辺にいるんだよなって思って。つい気になって、ちょっとみんなと別れてこっちに足が向いちゃった。…あとで駅の近くで合流することになってる。友達とは」
その弁解をそのまま受け取ってくれたのかどうかはわからない。でも、彼は気を悪くした風には見えなかった。
ふわ、と柔らかな笑みを浮かべて歓迎するようにわたしを見る。
「…そうなんだ。確かに、新幹線一本で来られる観光地って。そういくつもないし、夏の軽井沢はいい場所だよね。だったら、言ってくれたらよかったのに。ここまで一緒に来られたかもしれないし」
わたしは慎重に言葉を選んだ。
「新幹線までは友達と一緒だったの。現地に着いてさっき別れて。タクシーでここまで来たから」
一つも嘘はついてない。友達と別れた『現地』が軽井沢駅じゃなくて今、この場所だってことは。いちいち口にするほどの話でもないし。
彼は穏やかにわたしの台詞を受け流す。
「まあ、そうか。乗り物の中で友達と楽しくお喋りするのも旅の醍醐味だもんね。僕なんかが邪魔したら…、あ、カナさん。すみません、こんなとこで。車停めてもらっちゃって」
運転席の方からも人が降りてきた。彼がその気配を察していち早く振り向き、頭を下げる。
どう考えてもこの事態はわたし自身のせいなので。夫唱婦随ってわけじゃないがこっちも一緒にしおらしく頭を垂れた。ちら、とその視界の端に見えたその人物は女性だ。…わたしの心臓がずっきん、と大きく疼いた。
このひとが。…もしかしたら、彼の。特別な、お客さん?
だけど。ロングスカートの裾を軽やかに捌いてこちらに向かってきた軽い足取りは。どう考えても、身体の自由が効かない。って表現には、全然そぐわない。けど…。
「カナさん、この人。…僕の、あの。妻です。先日入籍した…。種村さ、…えーと。茜、さん。こちら、鳴沢香那さん。声楽家でいらっしゃるんだよ。僕を毎年、ここの別荘に招待してくれて」
星野くんの紹介を受けて彼女がわたしの方に顔を向け、口を開いた。おっとりとした、でも張りのある心地いい響きの声。…なるほど、声楽家か。
平常の喋りでも声質が普通の人と違うのはわかる気がする。落ち着き払った態度にどこかおっとりと、超然とした雰囲気。…なんて表現するのがふさわしいのか。クラスが違う。…かな。
「初めまして、いつも星野さんにはお世話になる一方で…。鳴沢と申します。せっかくの整体院のお休みに。わざわざこんな遠くまで、お呼び立てしてしまってごめんなさい。…新婚でいらっしゃるのに、差し出がましいことを」
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