第10章 わたしの男

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第10章 わたしの男

「お。…やっと来た。どうだった、旦那?やっぱ、ばっちり浮気してた?」 灯りを落とした落ち着いた雰囲気の店内にわたしが踏み込むなり、川田が目敏く立ち上がって手を振って合図をよこした。 わたしは思わず知らず憮然とした顔になって、ずんずんと荒っぽい足取りでそのテーブルに向かって進む。途中でふと、これはいけないなと気持ちを改めた。 思い返してみればこいつには、ここまでいろいろ無理をさせて振り回したんだった。いくら無神経なからかい混じりの台詞で突っ込みを入れられても。ここでむっとなって毒舌で返すような真似、できた立場でもない。 まずはちゃんと正面から謝って、ねぎらわないと。あんな何もないところで説明もなく放り出して、状況の見えないまま今の今までただ待ってもらった。そう考えたら多少不躾な言葉を投げかけられたくらいで切れるほどのことでもない。 だけど、やっぱり旦那浮気してた?はむかつく。わたしは奴の向かいの椅子を引いてすとんと腰かけ、たまたま近くを通った店員に軽く片手を挙げて合図をしてから素っ気なく話を逸らした。 「別に、普通だよ。彼のお得意さまの別荘に招かれて、お茶を頂いてきた。…それより、ほんとにごめんね。あそこからどうやってここまで戻ってきたの?近くに駅とかバス停なんかあったっけ?」 奴はさっきの成り行きをまざまざと思い出したのか、さすがにちょっと憮然となって肩をすぼめてみせた。 「そんなの全然ないよ。別荘地なんて、みんな移動は車なんじゃないの。だけどありがたいことにスマホのアンテナはちゃんと立ってたからさ。…この辺のタクシー会社調べて、住所伝えて迎えに来てもらったよ。ほんとにさ、この埋め合わせは簡単には済ませないからな。あんな風に目的地がどこかも伝えないまま連れてかれて説明もなく無言で放り出されて…。まあ、大人だから。見知らぬ土地でも何とでもなるけどさ、もちろん」 「ごめんて。まさか旦那本人に向こうから見つけられるとはさ。こっちも想定してなくて…。例えば彼があの場所に着いたところをこっそり陰から観察して。迎えに出てきた人物が誰か遠くからでも見えたらな、ってくらいしか。リアルには考えてなかったから」 「行き当たりばったりなんだよな、お前は。意外と見かけによらず…。それで、結局。どうだったんだよ」 いきなり単刀直入に突っ込まれて面食らう。 「どうって。何がよ」 「だから、旦那だよ。お前が想像してた通り、一緒にいたのは恋人だったの?見たぞ、ちらっと一瞬だったけど。あの車、運転してたの女だったな。なんかぱっと見ハイクラスな、いい女っぽかった。ああいうのがお前の旦那の好み?」 わたしは口を開いて反論しかけ、思い直して閉じた。…なんか。 説明するのも今はもの憂い。さっきまで、頑張って星野くんの前では余裕のある物分かりのいい女を演じてたのかな。そんなつもりもないんだけど。 間違ったことを言っちゃいけない、って気が張ってたのが緩んだと思ったらどっと疲れた。自分で思ってたよりだいぶ虚勢を張ってたのかもしれない。 この上こいつの前でまで、無理をしたくないや。わたしは冷たいアイスコーヒーのグラスを持ってきてくれた店員さんに丁寧にお礼を言って受け取り、ストローを口許に近づけるために下を向いてぼそぼそと呟いた。 「…なんか、あんまり。今はその話したくないかも。…結構疲れちゃったから。あとで機会があったら。…またゆっくり。聞いてもらうかも、川田には」 「そうか」 なんだよ、つまりあいつは浮気してたってことだろ?そんなの証拠揃えてさっさと離婚すればいいじゃん、とか面白半分に軽い調子で言われるかと思ったけど。 わたしがよほど凹んで見えたのか、川田はそれ以上水に落ちた犬を叩く素振りは見せなかった。ありがたいような情けないような。きっとあまりに憐れな様子が同情を誘ったんだろうな、と思うと。 ふと奴が、性急に椅子から腰を浮かしかけた。 「…あのさ。さっさと飲めよ、それ。飲んだらもう行くぞ、次」 「行く?何処へよ」 なんか殺生だ。気疲れして力が出ない、って言ってんのに。少しくらい冷たく美味しいコーヒー飲んで素敵な店内で座ってゆっくりしたっていいじゃん。と思って口を尖らせかける。 だけどこいつもわざわざ軽井沢まで旅行に来たんだから。特に行ってみたい場所とかあるのかな。そう思って顔を上げて尋ねてみると、川田は慌ただしく伝票を手に取って半腰でわたしを急かした。 「何処って。ホテルだよ、当然。もう三時過ぎたから。多分チェックインの時間だろ?…なんか、お前見てたら。急にめちゃくちゃやりたくなっちゃった。とにかく宿に着いて、まずは二人きりになって。何も考えずにやりまくろうよ」 わたしのグラスを一瞥し、それ、もう残してもいいんじゃん?と言い残してテーブルにさっさと背中を向けつつ付け足す。 「それに。お前だってその方がいいだろ。今は面倒なこと何も考えたくない、って言うんなら…。してる間は何もかも全部、忘れさせてやるから。泊まる予定のホテルの名前。そういえば、何だったっけ?」 「ん…っ、あぁ。…もぉ、…いきなり」 何なの。と文句を言う唇もあっという間に塞がれてしまう。部屋に案内されて宿の人が出て行くなり。逸る腕に引き寄せられて、まだ明るい室内で仰向けに横たえられた。 半分冗談かと思ってたけど、本気でむらむらきてたらしい。あんな状況で突然発情するとか、どういう体質だよ。と突っ込む間もなく、奴が呼吸を弾ませて押さえつけるように上からのしかかってきた。 荒々しく服の中に手を入れられて。感じやすいところを慣れた指先で速攻で探り当てられ、呻く。 「…普段からいつも、何度でもしてるじゃん。どうして今更。そんなに興奮してる、の?」 芯を擦られ、とろ、と溢れるものを自分でも感じてる。いきなりこんなに感じてるのがどうにも恥ずかしくて身を捩らせ、変な空気をごまかすように問いかけると、すっかりその気になってる奴が頭をを上げて間近にわたしの顔を引き寄せ、甘く囁いた。
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