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夕暮れ時が訪れ、山のどこかで鴉が鳴く。
「……」
目を覚ました吾郎はしばしぼんやりと、生垣の色褪せた緑を見つめていた。
……おれは、まだ生きている。
「……――しの」
がばと起き上がり、家の中を見回した。
いつもの地味な薄暗い家に、思いを交わした娘はどこにもいない。
……しのは、おれの精を吸い尽くさずに去ったのか。
ならば、しのは二度とおれの前に現れてはくれない――そう悟った吾郎は布団に倒れ込み、天井を見上げてぎりと歯を食いしばる。
しのの墓は、すぐそこにある。
……だが、違う。
おれは、話して、微笑んでくれる、あのしのに逢いたいのだ。
不意にあふれ出す熱い涙をこらえながら、やがて押し寄せてくる凄涼さに耐えてこれからを生きねばならないのだと、吾郎はひとり、静寂を噛み締めた。
「おい、今日も大漁だったぞ」
「おお、おれもだ」
「あとでお供えして、お礼しないとな」
大漁を喜ぶ漁師たちの声が、この日も仏ヶ浦と呼ばれる入江に響く。
その端、ひっそりとそびえる大岩の陰に、茶色いものが波に乗って打ち寄せられていた。
今は白くふやけてぼろぼろになった、節くれだった男の左手――かつて仲間だったその主の行方を、村人は誰も知らない。
了
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