6/15

18人が本棚に入れています
本棚に追加
/15ページ
「ところで、そなた――」 囲炉裏にいた吾郎が振り向いた時には女の姿はなく、縁側には湯気を立てる湯呑みと、女の座った跡だけが濡れたまま残っていた。 翌日は早朝から雲のない天気に恵まれた。魚もまずまずの量が獲れ、一安心した吾郎は穏やかな海から村へ戻った。 「おれんとこはさっぱりだ、いつもの漁場だったのによ」 しかめ面の松五郎が伝吉と定吉に向かってぼやいているのを背に、村から少し離れた高台の家へ戻り、食べる分の魚を置いて湯浴みに出かけた。 この村には山中に湧いた温泉があり、吾郎は漁のあと、いつもそこへ行く。皆は村内に引いた湯処を使うので、大人十人ほどが入れる広さの湯処は自然と吾郎の独り占めだ。 樋から優しく流れ落ちる湯の音を耳に潮臭い着物を脱いで、吾郎は湯に六尺の身を沈めた。 「ああ」 疲れがほぐれていく心地よさに、思わず声も出る。 鳥のさえずりと湯の音を聴きながら目を閉じていると、後ろの笹藪からかさ、かさりと音がする――振り向いた吾郎は思わず「そなたは」とつぶやいた。 現れたのはあの、雨の降る中、家の前にいた若い女だったからだ。……目鼻立ちの整った容貌を、よく覚えている。 女は吾郎におじぎをして、 「昨日は、ありがとうございました」 「……たいしたことはしていない。ところで今はここで何を」 「山菜を採りに参りました」 「山菜か。この山には何もないだろう」 「いいえ。ほら」 女の籠には、山で吾郎がありついたことのない山菜が、いくつも入っている。
/15ページ

最初のコメントを投稿しよう!

18人が本棚に入れています
本棚に追加