1999年、6月

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七月の暑い日、「気晴らしに」と久住から借りた本を返しに、僕は三階まで降りた。 調子の良い日もあれば、起き上がるのがしんどい日もある。 けれど院内に知り合いがいるというのが思った以上に救いになっているらしく、僕の楽しみは『久住と世間話をすること』になった。 勿論相手は小児科医で、ろくに暇などあるはずもないのだが。 ひと目見られるだけで気持ちが軽くなるという、おかしな現象を認めたくないが実感している。 ナースステーションの横を通った久住がこちらに気付き、にこりと笑って片手を振った。 振り返すタイミングが遅くなった僕の手は中途半端に終わり、ナースステーションにいた綺麗な看護師に微笑まれる羽目になった。 (本を返しに来ただけだっ) 副作用ではない動悸(どうき)がして、僕は気を()らす為にロビーに置かれた適当な絵本を立ち読みした。 『おうじさまは、まちむすめをきにいり、いっしょにおしろでくらすことにしました』と終わっている。 王子が一方的に町娘を気に入って、城に連れ帰ったような感じだ。 たった一つ、大事な何かが足りない気がした。 僕は純粋に絵本も読めなくなってしまったのだろうか。 大人になるとは、素直さを失うことだと思いたくないのだけれど。
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