日常

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日常

Ⅰ  外へ出ると校庭の銀杏の木はもうすっかり葉を落としており、冷たい星空から降りてくる風が枝をふるわしていた。 今の日はうんざりするような職員会議が長びき、アパートに帰り、それから一人分の夕飯を作るのが何故となくわずらわしかった。そして又きっと母から電話があるであろう。  二十五歳といえば、やはり女性にとっては、結婚の問題が大きく覆いかぶさってくる。見合についてのくどくどとした要求が、今年になって母親もあせっているのかそれかひんぱんになってきている。もちろんそんな母親の気持が恭子にわからないわけではなかった。同年齢の友人達は次々に結婚して行き、結婚しきでそのたびに「おめでとう」と言いつづける自分、ちょっぴりその時にはあせりはし、そのように帰りののこされた友達どうし、「ああとりのこされたあ」などと冗談を言いあうのだが、結婚という言葉が常に現実とむけでついてはいなかった。足はいつの間にかいつもの喫茶店に向っていた。 「インゲ」のドアを開けるとコーヒーを炒った香ばしさに包まれた。「いらっしゃい」とマスターの声がした。「福島さんたちも見ていきますよ」と言うと奥のテーブルの二・三人が顔を上げ、黒い顔の福島が手を上げて呼んだ。 「キョウちゃんこっちだ」 同人雑誌『潮風』の仲間ができたのは三年前だった。高校時代の文芸部の仲間が大学を卒業しこの地でふたたび帰る頃になって誰言うと無く作られたのであった。 「あれ、合評会はまだまだでしょ」近頃やっと二号目の『潮風』が出たばかりであった。 「そう、そうその合評会のことで話し合ってたんでしょ」福島は言った。彼は大学も国文科に進んでいたが、今は家業の電気店を継いでいた。「つまりだ」高校時代の文芸部の部長山岡が変にかん高い声を上げた。 「我々、『潮風』もだ。高校時代の仲間が集まってできたものであるが、一応大人の『同人誌』という名目で出しはじめた。そうたえず発展を期さなけりゃならんわけだア」 「そんなの当り前でしょ」 彼女はいささか突けんドンに言った。山岡のかん高い声が何故となく見ざわりに感じたから。 「遠野さん峰遠先生知ってるでしょ」大人しそうな田中がしゃべった。 「構口峰遠でしょ」構口峰遠はこの市に在住している。老齢の作家であった。戦前は共産党の党員として活躍していたそうだが何らかの理由によって、党と決別してしまっている。彼のエッセイでは中ば自嘲的に「若げのいたり」などと書かれていたが、その後中央の文壇においても政治と個人というものを中心の主題においた全作品を書いていた。峰遠が生れ故郷でもあるこの町にやってきたのは十年ほど前のことで「つまりその峰遠先生に、評してもらおうてわけだよ」 「そ・そんなの無理よ」 「なにが無理なんだい」と福島はコップの水を一口飲むと言った。 「だって、相手は大作家よ、こんな鼻紙同然の同人誌なんか」 「はな紙だアなんだい」山岡笑って言った。 「新村先生が、峰遠先生知ってるっていうんだよ」 「あの新村が、私達の部の顧問だったあの先生が」 「まあ、評してもらうと言っても、一口もらえれば、いいんだけどね」 「ああ恐いなあ」と恭子は少し大きな声を上げてしまった。 「おいおい、あまり興奮するなよ」  その日は十一時頃まで「インゲ」でコーヒーを三回ほど、おかわりして仲間達とバカ話をしていた。後から二名の同人の女の子が来たが、一名がこの次にお見合するなどと話が出、みんなで冷かし合ったりした。「インゲ」が閉ると、福島と山岡は酒を飲みに街に消えていった。バイクでアパートについた時もう十二時近かった。  食事は「インゲ」ですませて来ているので、パジャマに着替えると、本棚から一冊本をぬきとり、ベッドにもぐりこんだ。十二月の風は、割合に暖かい土地であるはずのこの土地でも相応にすべてをひやしベッドもすっかりと冷たくなっていた。  一冊ぬきとったのは、構口峰遠の小説であった。たしか高校時代に地元にいる作家と聞き、古本屋で買い求めたので来る。テーマはどうやら歴史と現実との間に押しつぶされざるをえない個人といったものらしかった。  この作家の文章はきわめて難解であったし、きわめて抽象的、観念的なものと評されるように高校生の彼女には、いささか手にあまり、何が何だかわけがわからないまま、五〇ページまでがまんして投げだしてしまったおぼえがあった。この本はベッドの中で開くにはいささか重すぎた。ずいぶんどっしりとした装丁であったし古本屋でもずいぶん値がはった。この作家は寡作であるうえに作品の特殊な性質もあって読者も少なく、あまり文庫本化もされていなかった。  この小説は峰遠が、昭和二十二年頃、ちょうど共産党の運動から転じた時に書かれたものであった。主人公もやはり共産党員であるが、地下活動にも入れず戦争にも合し得ずジレンマにもがき苦しみ連隊にとびこみ火薬もろとも爆死してしまうという内容である。 恭子はその小説の暗さについていけなかった。その日は二十ページ位、読みすすみ本を閉じた。山岡達の話では、明日でも新村の所に訪れ、構口とのコネをつけるつもりらしかった。行動的な新村のことであるすぐにでも動いてくれるだろう。文章から感じた構口の印象はとっつきにくいカタブツのようでもあった。他者を全くうけつけ得ない確固とした人間を感じた。  しかしその文章の難解さと同様とらえ難いモヤにつつまれた何かがあった。たしか前に一度どこかでこの作家のポートレートも見たことがある。  長髪の白髪で黒いジャンパーですっくと直立し、空をじっと凝視(ぎょうし)している。  たぶん、昭和三十年代であろう冬枯れの公園のような場所の向こうには、巨大なクレーンが何本も工場からのび空をさしていた。そんな記憶が、妙に鮮明にその写真だけよみがえってきたのだった。  次の朝六時半に目覚まし時計にたたきおこされた時、ベッドからなかなか体が起き上げられなかった。昨夜は本を読んでから、へんな妄想が広がりなかなか寝つくことができなかったのだ。 何とか起き上がりいつものように食パンをトースターで焼き上げ、口の中にはこんだ。食欲はあまりなく、昨夜「インゲ」でコーヒーを飲み過ぎたことも思い出され、寝つかれなかったのも別に構口峰遠のせいばかりではないようであった。中学校へ出る直前母から電話があった。 「恭子、ゆうべはどうしたの、電話を何回かけてもでないで。」 「うん、ちょっと、何、今、学校に出るところよ、先生がチコクナわけにいかないわ」 「じゃ用件だけ言うわよ、今夜はこっちにおいで大、大切な話があるからね。早く学校行きなさい」 電話ではらちがあかないので直接呼びだそうというわけで出る。 七時四十五分にはバイクでアパートを出た昨夜の寒さは水たまりを氷らせていた。風の強い日で、空の雲はふきとばされ、青天をむき出しにしていた。恭子は、三年前に市の郊外にある中学校に国語科の教師として赴任してから、バイクでみじかい距離を通勤していた。四季による風のちかいを感じるようになっていた。  恭子の学校のある所は、小川につい立てのように山がせまりその間に田園地帯が広まる扇伏地の上にあった。春には南の海からやわらかな風がふき、夏は山と山との間をひややかな風がわたりそして今頃になると、赤石連山の最終京である扇伏地の奥にそびえる千メートルの山から冷たい風がおりてくる。恭子はその一つ一つに愛着を感ぜずにはいられなかった。  恭子の生まれたのはこの市の二つとなりにあった。中学生の頃から少しばかり華やいで見えるこの街の高校に通いたいと思い、電車と駅から学校までの自転車通学を3人の友と通った。大学は東京の私立の国文科で学び、それと同時に教職課程も履修した。彼女が教師を志したのは別に深い理由があったわけではない。教育という言葉自体もそんなに彼女自身使うのが好きではなかったし「教育」について若い教師達自主的な勉強会の中に入って行くのもはにかみみたいなものを感じた。彼女の勤める学校では校内暴力といったものもどこか遠い世界のできごとのようにアンノンとしていたし、世間でささやかれるような教育問題のどれ一つとも対していないように見えた。 それよりも彼女はただ高校時代から文学が好きであったし、その世界のすばらしさも知っているつもりでいた。そういったものを子どもに伝えてやりたい。そんな理由から教師になったように思うし、この三年間、自分自身もその考え方をとろうとしてきたように思う。 その日は土曜日だったので、午前中2クラスの授業があっただけだった。ショートホームルームを終え職員室にもどり、授業の整理をして教科書を机にしまった時向うの机から串田と言う中年教師が立ちあがり「遠野先生、これ先生でしょ」と一冊の文集を示した。恭子が中学時代に書いたものだった。 「はい、そうですよ、よくありましたね、こんなもの」 「いや資料の棚の中をひっくりかえしたらでてきたんだ。なかなか面白いですねその創作、昔は先生も才能がおわりになったんだ」 「ムカシですか」 「もちろん、その才能がのびてりゃあ、こんなつまらん商売やっとらんでしょうに」  串田は大声で笑うと「その本さし上げますよ」と言い自分の机にもどって行った。その文集は県の教育委員会から出されていたものであって、はじめて洋子の文章が活字になったものだった。しかし高校の時に引っこした時どこかへまぎれこみ無くなってしまっていた。ずいぶんさがしたのだが見つからず、ずいぶん口おしい思いおしたことを彼女はおぼえていた。今読みかえしてみると、中学生が書くには少し幼すぎるところがあるくらいちゃちな童話だった。一匹のハチがどこまでも花を求めて海の上をとびつづけ、小さな島や虫達と語り合いながらやがて大陸の広大なお花畑に到達するといった話である。   しばらく恭子はそれを読みながら自分が成長するにつれて失ってしまったものを感じていた。 冬の陽はやはらかく窓から職員室の机をあたためていた。午後は午前とはちがいいく分あたたかくなっていた。学校を出、アパートに帰ってから家に帰るためにバスで駅に向った。  バスがちょうど「インゲ」の前をとおりマスターがちょうど店の前に出ていたので、恭子は手をふって声をかけたがマスターは気付かず、そばのでっぷり太ったとのおばさんがこちらを見た。その大声でバスの乗客もこちらを見ていた。  駅につくまで恭子は小さくなっていなくてはならなかった。駅前は風が強かった。何かの大きな紙が大きな音をたてて、デパートの上に舞い上っていた。 恭子はバスを降りた時向うに一人の紳士を発見したのである。紳士なんていう言葉はたぶんもう一般には使われていない言葉だろう。しかし恭子は紳士という言葉をふっと思いうかべてしまったのである。その老人は手にステッキを持ち、ぴたりとした英国風? の背広を着て、背すじをぴっとのばして、さっそうと冷たい風の中を駅の入口から地下へと歩いていった。 遠くからその紳士をじっと見つめていた恭子は、あっと気が付いた。構口峰遠であった。恭子にはその老人をスターでも見るかのようにじっと見入った。恭子はその文章からどこかカゲを密めた憂鬱な人物に思い描いていたのであるが、峰遠は地下道に通じる階段で立ちどまり後を見た。自分と同じくらいの歳の女性が後からかけてきて、作家と手をくみ何か一口、二口話したようだった。それは高校時代のクラスメイト里美であったからだ。 「どういう関係だろ」興味を少し恭子は持ったが、その時はそれいじょうは考えなかった、電車の時間が近かったからである。里美と老作家は、マゴと老人といってもいいほど年齢は当然はなれている。しかし、何となくお似合いのカップルというように理屈なく恭子には感じられた。偉大な老作家を見たこと、もしかしてその作家が自分達の合評会に出てくれるかもしれないこと、そんなことが何ともいえずまるで洋子は小娘のように感動していた。  桑原里美は恭子とクラスメイトだったもののそれほど親しく話した経験をもっていなかった。里美はテストではいつもトップにいるほどの秀才であり、一流と呼ばれる大学にも進学していた。かといって人から嫌われるようなこともあまりなく、生徒会でも活躍していた。  恭子と里美はべつに互いに嫌い合っていたわけでもなかったが何となく話す機会も見付からずまたその里美との関係を親しくするそれにもかかわらず、里美の行動は洋子にとって、一種のあこがれ、とてもかなわんといったこともまた事実であったのだが…。潮のにおう駅に降りた時陽はだいぶ西に傾いていた。  自分の生れた所であるのだから、一週間に一辺は帰ってきてもいいのだが、もち前のめんどうくささと今までの母からの結婚へのくどくどとした心配のわずらわしさから、夏休みから帰っていなかった。そんな遠い距離ではない。何にせよ高校時代はそこを毎日通学していたのだから。家の戸口に立った時、声をかけても誰も出てこなかった。恭子は、土間に腰をおろして靴を脱いだ。古い家で土間が腰の高さほどあった。広くて古い家の中は、じっと寒さがしみてくるようだった。  恭子は夏に来た時縁側ですだれがゆっくりとゆれているのを思い出した。静かに家の中を見わたしていた。奥の座敷に仏壇が置かれてあった。今年の彼岸、学校の事にかまけおまいりしていなかったのを思い出した。恭子の祖父はまだ二・三歳の頃この世を去り、記憶には全くのこっていなかった。祖母がこの世を去ったのは洋子が高三の時である。その祖母が恭子にとって何らかの精神的支柱となっていたことはたしかなことであった。  祖母も長い間、女学校の教師をしており、洋子のもの心つく頃には職をしりぞいていたが、短歌の同人にもくわわり、何首か洋子も稚拙な歌を作らされたおぼえがある。洋子にとっては短歌を深くわからなかったが、祖母の生活と直結した作風はとても親しみを持てるものであった。高校二年の時ちょうど死ぬ前の年、むきになって恭子が小説などを読んでいる時期である。祖母は押し入れの奥にある黒くなったこうりをひっぱり出してきて、「恭子、こんなの知ってるかい」とすっかり変色してしまった表紙の雑誌を示した。 『青踏』であった。かなり高齢の祖母であったから、やはりこういった時期に青春をすごしていたのか、恭子には思いあたり、文学史上のとてつもない文献を見たという感慨しかその時はなかった。  祖母が死んだ後、何冊かあった『青踏』を彼女はもらいこの自家の自分の部屋に大切にしまってある。西洋の文学好きの女性たちのいわば陰口のようなものだった。サロンにおける流行補語は日本では、そこに女性の解放といった思想と結びついていったということを恭子は後になって知った。祖母も当時としてはよほど進歩的だったのであろう)恭子は仏壇のある間に行き、合掌していた。  仏壇の上にかかっている祖母の顔はやや横向きで上品に見えている。祖母は割りに平凡な一生を過ごした方であった。きどっていた訳ではないのだが、田舎にあっては少し目立って見えていた。はでなかっこうをしていた訳でもなくむしろ落ちついて見えた。小学校の頃の時の祖母を思い出すと、一般的に優しいという感じではなかったと、買いものに街のデパートに出かけた時も、自らの目的の為にだけ背筋をのばし、どんどんと歩いていくのを洋子は必死になって追いかけたものだった。  最期の年の祖母は所謂「老人ボケ」の果てに死んでいった。しっかりした人としての祖母が退行し幼稚化していくのを恭子は見ていたし、トイレを糞だらけにして自らも汚れていた祖母の体を洋子自身もふいてやったりしたことがあった。  そして寝たきりになっていた1ヶ月間、それは七月から八月にかけてのことであったが、何度も着ているものを何度着せても脱いでしまったことがあった。  臨終の際には祖母は恭子の顔を認めると、声にならない声を出し、手を持ちあげて掌をさしだし、恭子もしっかり握り返した。 「恭子、帰ってるのかい」  母親の声が玄関の方から聞こえてきた。 「ああおばあちゃんのお参りしてたのかい」  母親は少し白髪が多くなっている。洋子は母親を台所で手伝っていると、農協につとめている父親が帰ってくる。食事がすむ頃には、必然的に洋子の縁談の話になっていた。伯母がもってきたという三人の男だった。一人は中学の教師、一人は公務員、一人は一流大学を出たという中小企業のエリートだった。 「いい話だと思うよ」 「お前もいつまでも若い訳ではないんだぞ」 「いつまでも先生やってる訳にいかんでしょうに」いつもと同じ言葉がくりかえされた。 写真はどれもハンサムともいえず、どれも平凡に見えた。また、その写真の人物に関する説明は月収がいくらとか、趣味に車で使ってサーフィンに行くとか、あまり洋子にとっても興味を示すものではなかった。 「いいわね」などといいかげんな合づけをうってはいるが、具体的な見合いの話になると「つごうがね、中学校の教師もこう見えてもいそがしくて五十人からの子どもを見ているから」とにげた。 しまいに父親を「何を言ってるんだ、お前自身のことだぞ、もう少しちゃんと考えろ」と怒らせてしまった。  これもいつものとおりだった。恭子はかくごしていたことであったが、その日は十二時をまわるころまで、その話はつづけられた。結局一人目の男と来月見合いしなければならなくなった。 Ⅱ   日曜の夕方、恭子は「インゲ」にいた。マスターは既成の豆は使わず、自家で豆をいっていた。こをばしいにおいが、いつものように店内にただよっていた。洋子はお気に入りの店のコーナーにじんどりゆったり座り、ふんぱつしてたのんだブルー・マウンテンを「潮風」を読みながらたのしんでいた。  しかし、それにしてもこの同人誌お内容は高校時代にくらべてレベルが高くなっているよりも低くなっているように洋子には思える。たしかに仲間達がもっていたはつらつさ、アイデア、問題意識といったものが見られなくなっているように思える。しかし洋子自身も高校時代の作品を読むと、よくこれだけのことを考えていたなあと思う。しかし又どうしようもない気はずかしさ、他人に決して人には見せたくない焼きすててしまいたいものであった。それにしてもあの時と今とのへだたりはいったい…・・・。六年の月日があの時から流れていたのだった。この六年間、彼女にそして彼らにいったい何があったのだろう。  宇宙の創世を小有事詩で呪った福島、ショートショートを一年で三百編も作った山岡、そして恭子自身もこつこつと小説を書いていた。自然そのものを純粋に感覚としてとらえ、その中に落ちこんで行く少女を描こうとこころみたものであった。たしかあれはきちんと完成したのだろうか。しかし今の洋子にとってはその後に一行たりとも書き加えることはできないだろう。  四年間の東京での大学生活、そして教師になってからの二年そんな時間が今、ここに横たわってしまっている。東京の生活はある意味では高校時代に夢に描いていたものが失望という形で出されたものであった。大学でも創作は続けていきたいと思い入った。同人サークルもあまり魅力的とは言えず、大学の生活は想像以上に単調なものであった。講義もただテキストを読み上げるだけの教授が多かったし、学生の中の雰囲気も学んでやろうというものが何故か感じられず恭子自身も怠惰な生活にのめりこんでいった。刺激がほしかった。生きているのだという実感がなく、そしてどろどろとなまあたたかい時間が流れていくだけであり、何とかここから脱出したいという欲望はたえずあったのだ。いや今から思えば楽しい生活なのだ。したいほうだいだった。バイトをしてあちこち旅行へも行った。 「おー、寒い、寒い」  えりまきの上に目を出したような福島が入口ドアをいきおいよくあけて入ってきた。「アメリカン」とカウンターの向うに一言叫ぶと洋子の前にどっかり座っり出された水を一気にのむと、まくしたてるように言いはじめた。 「キョウちゃんあの話うまくいったぞ。と峰遠先生といいたいところだが、まあ聞いてくれ、このあいだ新村先生について先生の家に行ったんだ。もちろん『潮風』を持ってね、思ったより明るい人だったよ。ソファにどっかりと座ってね。フランスワインをグイグイやっているんだよ、君も飲むかといってすすめられたんだが、何故かもり上ちゃてね。ジョークもよくとばしたし、旧制高校の寮歌のよらないものも大声でうたってね。実に面白かった。」 「それで、あの話どうなったの」先を急ぐように恭子は訊いた。 「ちょっと待って」あわてるなと言うようにしてコップの水を一口飲んだ。 「おそれおおくと、わが雑誌をたてまつったわけだ、先生うけとりペラペラと何ページかをめくって机の上にほうりだし。…・・・目をつぶってゆっくりと私も若い人達と話し合いたいと思ってたんでな。たのしく半年に一度でも集まってやりましょう。色々と若い人に伝えたいこともありましてね。年のせいかどうも書くことができなくなって、それよりも直接話すことの方が実感もあるし楽しいだろうからって言うんだ」 「けっきょく評なんて問題じゃあないわけだ」 「まあそんな、ところだないいじゃないか、大作家の話がタダできけるんだ」マスターは福島の前にコーヒーを持ってきた。 「ところで」洋子は思いだしたように福島にたずねた。 「里美、知っているよね」 「桑原里美が」はにかむように彼は恭子を見た。 「うん」 「彼女がどうかしたのかい」 「峰遠先生と腕をくんで歩いているのを見たのよ」 「ほう」福島は一言声をあげた。 「知ってるの」 「新村には秘密にしてるって、言われたんだけどね」 「で」 「どうやら峰遠と同棲しているらしいぜ、彼女」つけくわえた。恭子は福島が里美のことを好意を高校時代に持っていたことをよく知ってはいた。今のしつ問は彼女の興味をまんぞくさせるにたりうるものであったが、また同時に割合に純情な福島に対するサディズムもふくまれていたことに気付き少し後悔をしてみるのだった。 「でもね、あんなオジイちゃんとよ、いくら大作家だからって少し考えすぎじゃないの」 「そう、あの人ももの好きではないはずよ」 ヘタな言い訳のようになってしまい少し言葉はとぎれた。福島は目をどこにやるともなくまよっていたが、洋子のコーヒーカップに目をやり「ひえーブルマンかあ」とすっとんきょうな声を出してしまい、回りの客にちらりと見られいたたまれないように、そばにあった新聞紙を開いて顔をかくしてしまった。 マスターはげらげら笑っていたが、恭子は笑ってなかった。今の行動を福島がごまかす為の演技のようにも洋子には思えていたからだった。しばらくして山岡が入ってきた。それまでテーブルの間で交わす言葉を失ってしまったようになっていたが、二人ともすくいが来たように彼を見た。 「ねえねえねえ、私お見合いするの」 「へえー」 「なんだよ、俺には言わないで」 「で誰と」 「S市の公務員」 「それはそれは」と茶化すように山岡は言った。 「いよいよキョウちゃんも年貢のオサメ時」 「それにしてもショックだよな」 「なによ、結婚するんじゃないの、しかたなく義理で、そうどうしようもない義理で形だけするの」と恭子は冗談めいて抗しながら考えていた。  このような形で友達からからかわれて言われている自分、見合いという風習の中にいやがうえにも、たしかに置かれてしまっている自分、そしてその風習がおかれている社会の中にいる二人の友、高校時代には決してなかったものであるのだが。 ……この不安はふと思考が立ち止まる程度のもので、その時すぐにも消えてしまっていた。そして、それを打ちけすように「社会的未成熟者やモラトリアム人間になってしまうぞ」と心の中でつぶやいていた「少しちがう」という思いをよぎらせながら。  恭子が里美とばったりと合ったのはそれから二日後の火曜日の夕方だった。雑誌の新刊を買う為に恭子は町の中心に出ていた。学校でついイヤなことがあった後などは何らかの理屈をつけ町に出ることにしている。  商店街に来る三階だての本屋は立ち読みの客であふれていた。いつのころだろうか、町にあてもなく出た時などはいつの間にか本屋の本棚の間をさまよっている自分に気付くのは、べつにそれほど買いたい本があるわけではない。何げなく本を手にとってさまよい、貴重な時間をつぶしてしまうと思いながらも、なかなか本屋からぬけだせなくなって、ついつまらない本を買ってしまうことがよくある。しかしこの日は目的の雑誌だけ買うとすぐに本屋を出た。夕方近く、冬の最中にしては、不思議にあたたかな日であった。ふと恭子は感じた。思い立ち、今はやりの映画を見てやろうとどういうわけか思った。  ウィークデイの夜のせいか映画の千秋楽が近いせいか、映画館の中は意外なほど人は少なかった。映画のタイトルから、かるいラブストーリーと思ったのだったが、なかなか前衛的なものでいささか頭がつかれ、頭にはのこらなかった。 映画館を出るときだった。 「遠野さん」と呼びとめられた。 「遠野恭子さんでしょ、高校の私桑原里美、同じクラスの憶えてる」 「ええ」 「ああやっぱりこんなせまい町なのに、高校時代のクラスメイトってなかなかあえないものね」 「桑原さんも今の映画を観ていたの」 「ええ、それより、どこかでお茶のまない」  高校時代にはほとんど里美とは話をしたことがないのであるが、里美の意外なほどの気安さに少しおどろいたものの違和感を全く感じなかった。里美が恭子をつれていった喫茶店はいつもいき来していたビルの地下にあったのだが、恭子にとってははじめて来た所であった。一むかし前のつくりであろうか、店の中は薄暗く黒い木材がつけられテーブルの上にぽつりぽつりとランプが下っていた。里美はテーブルに腰を下すとバックからタバコをとり出しくわえて、火をつけた。恭子は別にタバコをすう女はめずらしいとも思わなかったが、学校という場所にいた彼女にとってはほんの一瞬ハッとしたものを感じた。  里美は一口すうと「あっごめんなさい、あなたすわないのね」洋子に気付きもみけそうとしたら 「いいの別に私気にしないから、吸わないけど私、嫌煙権という思想好きになれないの」 「じゃ失礼して」 「遠野さん、学校の先生しているんですって、いいなあ私もはじめはその予定だったんだけど、大学に行って急に勉強がつまんなくなって教職の単位とるのでやっと、という学校の子どもってかわいい」 「とんでもない、なまいきな連中ばかりよ、いつも追いかけっこばかりなんだから、まあ私達の学校時代も同じようなものだったけどね」 「でもいいわ」 「そんなことないって」  恭子は、どうも自分の仕事について言われると何故かはにかんでしまうのだ。別に教師といっても特別な職業であるわけはない。里美の言葉には、本当にうらやましがっているようであった。しかし、ただそれは恭子を優位に立ててうらやましがるのでなく、どっしりとした余裕をもったものがふともらしてしまった感慨ににていた。恭子は峰遠のことについて聞いてみたいと考えていた。しかしなかなか切り出せず、  遠まわしに恭子は「今、何をしてるの」ときいた。「翻訳の仕事」と里美は笑顔でこたえた。話はそれから、別の方向に行ってしまった。高校時代のことを何やらはなししているうち、喫茶店の入口に本人があらわれたた。里美はそれに気付くと大きくと手をふった。洋子は思わず息をのみ「あの人溝口峰遠。作家の溝口峰遠でしょ」と里美にきいてしまった。里美は、うれしそうに大きくうなずいた。 「遠野さんごめんなさい、私、彼とこれから東京へ行くの」 洋子はいきなりのことで、びっくりしていた。里美は峰遠にかけより腕をくむと喫茶店からでていった。洋子は一人とりのこされた。 Ⅲ  新幹線が駅を出たのは、八時頃だった。里美が雑誌から顔を上げると峰遠はいなかった。日ぐれたうすあかりの中、あかりとつけた家々がジオラマのように次々とあらわれていった。春の宵は静かである。新幹のモーター音がゆるやかにきこえてくる。  峰遠が、小さな箱を二つもってあらわれた。 「君、おなかすいているだろ」とジュースとサンドイッチをわたした。 「ありがとう、でもどこへ行ってると思った」 「こんなもんタケエもんだな、駅でソバでも食った方がよかった。」 「今日は田辺さんたちといっしょ?」 「ああむかしの仲間だ、いっしょに飲むからこいっていうんだ。まあ別に君がつきあうこたあねえんだが」 「でも、東京には原稿を届けるよう用もあるし、私も田辺先生とのんでみたかったの、彼の「はるかなる道」て感動しちゃったんだ」 「俺たちの同人時代の作品だ。でもあいつにしちゃあセンチメンタルでつまんねえぜあれ」「そこがいいのよ、あなたは、叙情というもの関する感性が少したりないのよ」 「そうかね」彼は少しこまった顔をした。らんぼうだね。「君。ところで君の高校時代の福島って男知ってるか」 「福島だけじゃあ」 「僕もよく思いだせないんだよ。新村君がつれてきてね。何でも同人くるそうだ『潮風』という名らしい」 「それならさっきの喫茶店にいた女性もその同人よ」  峰遠は『潮風』をとりだすと「何という名だ」とたしかめペラペラとめくり読みだした。里美も又雑誌に目をおとした。雑誌はこれといって面白くなく又里美は窓の外をながめた。今、 街の中をこの列車は高速で疾走している。里美はこういった静かで充実した時間が好きであった。里美は峰遠を見た。彼は眼鏡無しで洋子の文章を、柔和な目でおっていた。  里美が溝口を知ったのは大学を卒業する前の年である。5月頃であろうかゴールデンウィークとあって、大学は1週間休講する教師が多く自然に休みとなっていた。里美は卒論の資料を漁る為、国会議事堂の横にある国会図書館に行った。春の光は暖かかったた。里美はその時風をはじめて感じたのだった。 昨夜のすし屋で行なわれた。それにコンパを早めにきりあげてよかったと思った。里美が所ぞくしている歴史研究グループの新入生歓迎コンパがあった。4年生は自然に引退となるのであるが、同学年の仲間が大きな寿司の桶にビールをそそぎ、それをのませるのであった。場も泣きわめく女の子。わけのわからないことを叫び、怒っている者、いりみだれていた。里美もいつもなら酒も弱い方ではなかったので、仲間にしきりに議論をもちかけてわめいていたのだが、いつの頃からか宴のたのしさから自々一人がぬけ落ちているのに気付いたのだ。じっとさめた目で仲間達のハチャメチャぶりが不快に、そして醜く思ってたのだそれはいったい何故なのだろう。一年下の田中という男の子が「センパアイ、飲んでるんですか?」と片手にビール瓶をもちついでいるらしい。里美は自分の持っていたコップに少し口をつけると「のめないの」とさし出した。 「いやだな、ウワバミのクワバラがちょっと暗いんじゃないんすか」 「そお」 「こりやあ、青山のヤツにふられたな」里美同年の青人に田中は大声で「コラア青山、女泣かしたな」 むこうで三年の米山という女の子に何やらからんでいた青山が、「なんだって」と大きな体を上げた。 「サトミちゃんが泣いているよ」 「おお里美、俺の、ことは忘れてくれ、俺は米山が好きになった」と米山にだきついた。女の子は大きな声をだした。しかし決していやがってはいなかった。 「先パイ、青山さんのことなんか、忘れて僕にナカミ話して下さいよ」 「なんでもないの、本当に」 「いやだ、暗いのに」 このまま田中を相手にしているのもいやだった。 彼女は一言小さく田中をおこらせない様に 「ちょっと一人にしてくれない!」と言うと 「わっわっわっいいなあーいまの一言、しびれるなあ」とはしゃぎだした。 「そんなこと言わずに飲みましょう、オネータマー」 彼女はやりきれなく立ちあがっていた。出口のあたりで永島という女の子に「ちょっと気分悪いから、さきに帰るわ、よろしく」と声をかけ、そのまま出ていってしまった。気分など悪くはなかった。里美はそのまま公園へ行きベンチにふかくこしかけ星空をあおいでいた。  議事堂前にはみどり色の右翼の車がききとりにくいほどボリュームをあげて軍歌調の音楽をひびかせ何台もつらね疾走していった。ちょうど議事堂のウラ門は機動隊がじん速にゲートを閉めていた。受付でバッジを受け取りカードボックスで目ざす本をさがしはじめた。里美はゼミのレポーに関連して古今集を学ぼうとしていた。何冊かの本をメモに書きとり、本をさがしてもらうには長い列の後ろに付かなくてはならなかった。列はなかなか前に進まない、もう少し事務手つづきを早くしてもらえないだろうか。ここに勤務しているのは優秀な人間ばかりのはずなのにそんなことをブツクサと里美は考えていたのだった。ようやく本をかりることができた時には昼近かった。  里美は図書館の食堂に行った。窓から見てる木々はまだほんのりと黄みどりに近かった。午後はかりた本のメモをとらなくてはいけない。 「ここにかけてもいいですか」  わりあいとこんでいる窓ぎわのテーブルがあいていたので、横にいた老人にたずねた。老人は熱心に本を読んでいたら、はっとおどろいたように顔を上げて里美の言ったことに数秒の間をおいて気付いて「あっどうぞどうぞ」とわいあいと大きな声でこたえた。それが講口峰遠であったのだ。武骨に見てるその老人を里美はすぐに峰遠であることに気付いた。そして意外にも気やすく愛想良く話しかけてきたのだった。「何かのご研究ですかな」彼女は見識った人と話すようにそれにこたえた。  構口は里美の 借り出した本をとりあげぺらぺらとめくった「貫之ですか」と言い、色々と「古今集はやっぱり面白い」と語りだした。里美は4年になってから毎日国会図書館にかようようになった。そしてそのたびに構口と話し合うようになっていた。  構口からは「資本論」も読むようにすすめられた。とても難解だったが、今まで見向きもしなくなかったその書物も薦められるままに読んでいった。それから何ヶ月もたった時、話がとぎれ、じっと自分を見つめる構口に気付いた。里美もどきりとした。その時はじめて構口がのぞんでいるものがわかった。そしてこの老人に自分自身も好意をもっていることも…その後、出版社から翻訳の仕事を世話され、それら少しずつこなしていくようになる。また自分自身も仕事を求めていき、二冊の訳本を出せるまでになった。二十代の後半としては、じゅんちょうな出だしだった。構口とは何回かその間に性的に交った。老人は甘とるように若い里美にむしゃぶりついた。欲望はまだ完全であった。しかし、里美には確信がある構口の自分に対する感情はプラトニックな面がつよいことであると、里美が感じていたのは性欲そのものよりも、幼児のそれであり、いつくしむそれである。不安的な二人の関係はもう関連づけられていくのであった。東京についた。都電に乗りかえ新宿で降りて雑踏にまぎれた。古ぼけたバーのドアにたどりつき開けると、丸く太った、田辺という作家がもう来ていた。 「おーミーさん、遅せえぞ」野太い声で二人をよんだ。 「何だい御夫人同伴かい」 里美は構口から田辺に紹介された。 「ほら南米の何とかいう作家とーと忘れちまったけど『遠い春』を訳した娘だよ」 「へえー」 二人の話は其の太宰かどうしたの坂口がどうしたのととめどなくつづいた。二人に酔いが回ってきた時であろうか。 「ミーさん気をつけなよ、お前さんを殺そうとしている、若けえのがいる」と田辺は声をひそめて言った。里美はギクリと、田辺の顔を見た。目は点赤であったが鋭かった。 「へー、そいつあったのもしいや」ほんの少しの間をもってから構口は笑いとばした。何でも三島由紀夫の右翼信的な信者らしい。構口が青年雑誌にかるく書いた、雑文で三島の行動についてメッタメッタに書いたことに、その青年はいかりくるったらしい。まあそれ位はなんでもないのだが、それが上の組織まで動かしジープで構口峰遠を追放しろ!と走り回っているらしいのだ。 「なーにそんなもん、すぐおさまるさ」  構口はまるでそんなことにとんじゃくないようにとりあわなかった。里美が構口を東京の別宅までおくり、自分のマンションに帰ったのは午後3時を回っていた。明日までに仕上げなければならない仕事をする為それから机に向った。原稿5枚を清書し終わったのは明け方近くだった。電気ポットにコーヒーをかけ窓をあけると外は雪であった。都会は夜をとうして騒々しく動いていた。自動車の通る音が大きくひびく。いくつものビルは黒くくすんでみえた。右翼のみどりの車が静かに首都高速の上をとうりすぎる。里美は昨夜の田辺の目をのぼせ上った頭のすみで想い出していた。 Ⅳ  見合いは山の上のホテルで行なわれた。ホテルのロビーの大きな窓からは洋子の住むとなりの市の巨大な港がみえた。冬の光は意外に目映く街の上に降りていた。父親と母親と洋子は待っていた。十時の約束にはまだ三十分近くある。仲との伯父夫妻がつれてくることにはなっていたが、こんな日にかぎって父親がせかせかといそがせ、ずっと早くついてしまっていた。恭子はまた腕時計をそっと見た。相手が来る前から早くも速くこの時間がすぎてくれればいいと考えていた。十分前に市役所に勤めているという男が来た背が高く顔が長めで陽にやけて黒かった。まあ、ハンサムな部類に入るのだろうなあと洋子は思った。    高校時代には野球をしていたらしい。大学では。歳は思ったよりも多く三十歳だという。今まで多くあそんでいたのだろうなとなにげなく思う。形どおり二人きりで話すことになった。 「じゃ二人で庭でも散歩してきたら」と伯母が言いい2人席を立った。ロビーを通りかかるとちょうどニュースをやっていた。アナウンサー構口峰遠の名を言った気がした。少し洋子は気になった。 「中学校ってどうですか」 「休みの日は」などとあれこれ妙になれなれしくきいてくる。 聞くこともなく洋子はそれにうなずいていた。 小春日和ということもあってか暖かな日だった。ホテルの山の頂上をけずった広い芝生を植えた庭園には、おそらく自分らと同じような見合でもあったろうアベックが、あと二,三組いた。 「いつも神奈川までボードもっていくんだけどね。いやたまんないよー三十ともなれば、もうオジンあつかいでね、まわりにいる奴らは20台前後だろ…」 「構口峰遠」て知ってます。さっきから気になっていた名をきいてみた。 男は面をくらったように大きな口をあけたが 「いや誰、それ」 「作家ですけど」 「ああ洋子さんは文学が好きなんですか」 「まっええ」 「僕も太宰治の『走れメロス』とか漱石の『坊ちゃん』は読みましたよまあ今頃も西村寿行とか、そうあの人の本はほとんど読んでるけどね」 相手の方も恭子とかみあわないので無理に話題をあわせてるのかと思った。  しかし特有ななれなれしい話術はいつか洋子もひきこまれていた。いつかたいくつと思われた時間もすぐすぎた。見合が終って帰ってきて、「どうだった村田さん」と母親に問われた時「村田さん?」と問い返してしまった。 「いやだねーこの子は、今見合いした相手じゃないか。姓名数もよくおぼえていない。2人で話していたこともその村田という人からもなにものこっていなかった。明日も学校があるのでその日はアパートに帰った。テレビをつけた、その時は構口のこともすっかり忘れていた。シャワーをあび、パジャマに着がえてベッドにひっくりかえってコーヒーをすすった。はじまったニュースに洋子は耳をうばわれた。 「今日、作家の構口峰遠さん七十二歳が、都内のホテルニュープリンスで右翼の団体員と思われる少年に刺され中央病院にはこばれ重体です。少年は、その場にいたホテルの職員にとり押さえられましたが、背後関係については不明です。……」  一瞬、恭子は、駅の前にいた里美と峰遠を思い出した。その後すぐに福島に電話をしてその事実を伝えた。福島はそのニュースをすでに知っていた。  これで『潮風』の評を構口にみてもらうことは当分の間、延期ということになった。電話をした時の福島の声はいくぶんいきいきしたものだった。花屋によって、名の売れた洋菓子屋で甘い物好きな峰遠の為にチョコレートケーキを買った。 Ⅴ  昨夜電話で「病院の食事はたまらん、何しろ食飼とかくぐらいだまされた拷問だ。里美君、たすけてくれ」となさけない声でうったえてきた峰遠だった。 電話口まで出てこられるのだから、もうだいぶよくなっているだろう。国電を降りて、雑踏の中をもまれながら歩いた。S市生れの恭子にとって東京に来ておどろかされたのは、東京の人が、以外なほど歩くという事実だった。東京の人は交通機関はほとんど電車を利用する人とは、その間を歩かねばならないマイカーとか自転車ですませてしまうのはむしろ地方の人の方が多い。日本の中で最も歩いているのは東京の人である。里美は長年すみなれたはずのこの東京で、未だに歩くのがおっくうでそして、都会の人の歩く流れにそって、足速に歩けない自分を自嘲してみるのだった。それにしても足速に人々は歩く。大学の附属になっている巨大な白い建物にそって歩いた。入口まではだいぶ来る。ぐるっとまわった向うがわだ。昨日まで、ふきあれていた木枯しも今日は一休みか陽ざしは心地良かった。病室にたどりつくと、峰遠はベッドの上でらーらーとうなっていた。 「どうしたの、もう今にも死にそうじゃないですか」 「いやあ、これ位のキズたいしたことアないと、たかをくくっていたらかえって悪化しちまった。」 「ドクターにしかられたんじゃないの」 「ふんあんな若ぞうに何がわかるか」にくまれ口をきいたとたん、「いてててて」と峰遠はまたうなった。個室の病室はあせばむほどだった。窓ぎわに買ってきた花を花びんにいれておいた。峰遠の調子は思ったより悪いらしく、とても買い求めたチョコレートケーキなどたべられる状態ではないようだった。しかし峰遠はおきあがりキズのある脇をさすりながら洋子と話したいらしかった。 「とんでもないことだな。今どきこんな目に遭うたア、思わなかったよ。それにまだあんなやつがいようたあな」 「本当時代錯誤もはなはだしいわ」 「でもな、考え方によっては今ならではかもしれないよ。今は平和すぎて人々のだれもがあんのんすぎるから何かの刺激がほしいんだ。何かのキカイがあれば狂気に向ってどこまでも傾斜していけるんだ。特に若い連中はね」 「何かの刺激がほしいというのはわかる気もするわ」 「暴走隊とかいうだろ話によるとあの組織というのは思いのほか、しっかりとして上下関係というのも厳格のようだったいったところに学校の規則にしばられるのがイヤな連中がすべりこむどこかちがうのか、場としてのキンチョウ感つまり刺激があるかないかだよ。暴走隊には暴走という自己実現の場が保証されているんだ」 「先生にケガをさせた子も元暴走隊だったようね」 「うんそうなんだ。すなおそうな奴だよ、聞いてみると純なやつほど、横すべりをおこしてしまうんだ」 「でも全部が全部暴走族にはならないわ」 「いや全部を動かすのは思ったよりかんたんかもしれないよ。流行なんかいい例だね。ファッションとかいうけどあれはファショと語源を同じくしているというからね」 「でも今は個性的になってるわよ。一つの流行が全体にいきわたるなんてことはありえないわ」 「いや、流行そのものが多様化しているにすぎないのさ」 「そうかもしれないけど…」里美はしばらくして、言葉をついた。 「今の子たちは思ったよりしっかりしている子も多いわよ。自分の仕事というものに情熱をもってとりくんでいたりしている子もたくさんいる。考えていないように見えていても考えているわよ。豊かになった反面精神面がほそくなってしまっていること、そんなことも十重わかっていることだと思うわ」 「だけど何ができるのかな」 「何をすればいいの」 「そんなこと君らが考えるべきことじゃないかね……」 少しこうふんして話しすぎたためか又峰遠はわきばらを押さえた。 「ごめんなさい、つい調子にのっちゃって……」 「いやいいんだ。……ちょいと苦しいぞ」  看護婦をインターホンで呼んだ。すぐに薬をのまされたが、二人はこっぴどくしかられてしまった。峰遠はしばらくするといびきをかいて寝てしまった。里美は案外と静かな昼下がりだった。テニスコートでは若い女性が打ち合いをやっていた。さっきの話からそのように平和に思える光でもあった。                            第一部 了
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