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「母さんは?元気?」  俺が訊くと、美月は笑って、荒い息の間に答えた。 「元気だよ。あの人はいつだって元気だよ。あの人の中で、朔ちゃんがちゃんと元気なうちはね。てか、お兄ちゃん、たまには帰って来なよ。母さん、会いたがってたよ。お兄ちゃんにも」 「朔がいるうちは、いいだろ」  うちの墓が見えてきた。それでもまだ、上の方だ。  美月が、はぁ、と大きな息をついた。  美月がお兄ちゃんと呼ぶのは、俺だけだ。  もう一人の兄であるはずの朔のことは、「朔ちゃん」と呼んでいた。  朔がそれを嫌がっているのを知っているのは、多分お兄ちゃんと呼ばれている俺だけだ。  朔は妹に兄と呼ばれたいと切に願いながらも、死ぬまでそれを口に出せなかった。 「朔ちゃんて、にじゅうじんかくだよね?」  美月がまだ小学校二年生のころだ。俺はもう中学生になっていた。朔はまた入院となっていた。朔が入院している病院からの帰り道、美月が耳打ちしてきた。 「二重人格?」  俺が確認すると、美月は、うふふと含み笑いをして、頷いた。 「一人の人間に、全然違う性格が入ってるってことでしょう?今日、友達が話してるの聞いた時、あ、これ朔ちゃんのことじゃんって思ったんだよね」  おもしろーい、と美月は無邪気にはしゃいだ。  朔は母親の前では、大人びていて、しっかりした子どものように、振舞っていた。母と俺たちが一緒に病室にいる時は、来てくれて嬉しいよといった顔をする。しかし母が一緒ではないと、途端に陰険なふるまいをした。  買ってきたものを投げ返す。俺の言ったことに反発し、妹がしゃべると鼻で笑う。 「なんで来たんだよ。別にいいよ来なくって」  最後には、鬱陶しそうにそう言った。 「ママが言うから、来てやったのよ!」  一度、思わず美月がそう怒鳴り返したところに、母が戻って来た。  母は驚き、青ざめ、嘆き悲しんだ。  俺と美月は必死に謝って、病室を後にした。朔に謝ったんじゃない。母に謝ったんだと自分に言い聞かせながら。  母と俺たちが同時に朔の病室に来ることも、同時に帰ることもなかった。母は俺たちより早く病室を訪れ、夜遅くに帰って来る。  母親に見送られて家に帰るのは、美月には寂しかっただろう。朔は自分のところに母親が残っていることを、母親には見られないように自慢しながら、俺たちを見送った。  一度、一旦部屋から出たところで、忘れ物をしたのを思い出して、もう一度部屋のドアを開けたことがある。  その時の朔の顔が忘れられない。  朔はまだドアを見ていた。ドアが開いたから見たのではない。閉まってからずっと、見つめていたのだ。その顔は頼りなく、今にも泣きそうだった。  ドアを開けた俺と目が合うと、朔は慌てて目を逸らせた。  朔は朔で、自分が入っていない兄妹の後ろ姿を、切ない思いで見ていたのだ。 「美月、なんで朔のことはお兄ちゃんって呼ばないの?」  その帰り道、朔のそんな顔を振り払おうと、美月に尋ねてみた。美月はえーと困ったような顔をした。 「なんでって、朔ちゃんは朔ちゃんで、お兄ちゃんじゃないからだよ」  おそらく美月は、朔が美月に兄と呼ばれたいとは、気が付きもしないし、理解もしないだろう。そしてそのことを俺が気が付いていると朔が知れば、たちまち彼が必死で守っている自尊心を傷つけるだろう。俺なら絶対に知られたくない。  俺は美月にそれ以上何も言わなかった。  朔がそれでもとびとびで学校に行けたのは、六年生の夏休み前までだった。夏の暑い盛りに体調を崩して入院した後、朔はもう学校に戻れなくなった。  体調は下降気味で、体力がどんどん落ちていき、それに伴い免疫力も落ちていった。  調子がいい時はベッドに体を起こしていたが、調子の悪い日は目も開いているかどうか分からなかった。俺たちはそっと朔の口元に手をかざし、息をしているか確かめたりした。  朔がすっかり回復し、元気になるなど信じられなかったが、朔が死んでしまい、存在しなくなるということも、想像ができなかった。何となく、ある意味ぬるま湯のようなこの生活が、ずっと続くのではないかと錯覚していた。  俺は油断していたのだ。  その日、美月と二人で病室に顔を出すと、母はいなかった。朔は横にはなっているが、目はあいており、俺たちを見ると微笑みさえした。 「母さんは買い物に出てる」  朔がそう言ったので、俺は「そうか」と言った。別に母に会いに来たのではないのに、何となく母が不在だと、間を持て余してしまう。俺たちは丸椅子を持ってきて、ベッドの横に座った。 「調子どう?」  ありきたりのことを訊くと、 「悪くないよ」  朔は笑って答えた。その後、話が続かなくて、俺は尻をもじもじさせた。美月は何度も時計を見ていた。母は帰ってこない。  そろそろ、と先に腰を上げかけたのは美月だった。 「満、美月」  不意に朔が呼んだ。朔は俺のことをお兄ちゃんなどと呼ばない。ただはっきり名前を呼ばれることも珍しかった。  俺たちは驚いて、上げかけた腰をまた丸椅子に降ろした。 「行かないで。ここにいて」  それは聞こえるか聞こえないかの、小さな声だった。 「母さんと二人にしないで」  微かな声だったが、朔は確かにそう言った。そう言って、手を伸ばしてきた。  俺たちは馬鹿みたいにその手を見ていた。  朔の手は薄くなっていて、震えていた。  美月が先に手を伸ばしかけた時、ドアが開いて母親が入ってきた。  朔の手は手品のように、掛布団の中に消えていた。 「あら、あんたたち来てたの。満、試験が近いんじゃないの?もうここはいいから、帰りなさい」  朔はもう壁側を向いており、目を瞑っていた。寝ていないことは分かっていたが、俺たちは何も言わず、家に帰った。  それが朔とのお別れだった。  夜中に容体が急変し、駆け付けた時には、もう意識がなかった。  朔は十三歳になっていた。中学校に入学したことになっていたが、一度も行くことなく、生涯を終えた。
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