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「わたしが物心ついた時は、もう朔ちゃんがいたからなぁ。いなかった時の、普通に幸せな家庭を知らないんだよね。朔ちゃんは、大きな壊れ物って感じだった。だから、触っちゃいけない」  我が家の墓地は、山道を少し登ったところにある。美月はふぅー、ふぅーと荒い息をしながら、歩いていた。 「大丈夫か?下で待っているか?」  そう言うと、美月は首を横に振った。 「自分でお参りしたいの」  朔はまるまる二ヵ月病院にいて、我が家に帰って来た。六月生まれなのに、帰って来た時にはもう真夏になっていた。  保育器の中にいたころよりは、肉も付き、赤ん坊らしくなっていたが、手足は細く、弱々しいことは変わらなかった。  壊してしまいそうで、俺は手を握ってやることもできなかった。母でさえ、おっかなびっくり抱いているように見えた。  朔が入院中は、病院に通い詰めで家にいることが少ない母であったが、それでも家にいる時は、俺を構ってくれた。  ところが、朔が退院して家にいるようになると、家にはいるが、朔に付きっきりになった。  時間になると、食事を与えられ、幼稚園へ送り出され、お風呂に入れられ、寝かされる。それを欠かされたことはなかったが、母の手は常に急いでいて、顔は朔の方を向いていた。  幼稚園でぐずり始めた俺を扱いかねて、幼稚園の先生がこう漏らした。 「赤ちゃん返りかしら。弟さんが生まれたから」  赤ちゃん返り!  自分のこの切なさは、そんな簡単なことなのだろうか。  だとしたら、ぼくはずっと赤ちゃん返りから立ち直れない、と思った。  ママはずっと朔のところにいるだろうから。  一旦家に帰ってきた後も、朔は入退院を繰り返した。  朔が家にいる時は、静かにしていないといけないし、友達を連れてきてもいけない。  俺は朔の入院を待ち望むようになった。  入院中は、母は朔に付きっきりだが、家に荷物を取りに戻ったり、俺が病院に行ったりすると、申し訳なさそうに頭を撫でてくれた。  そのたった一年後に、母は美月を妊娠した。周囲の誰もが、父でさえ、驚いていた。  朔ちゃんで大変なのに、もう一人なんて、大丈夫なの?  周りの大人たちが、声に出しても出さなくても、そう言う中、母は毅然として美月を産んだ。  しかし、やはり無理だった。  朔の病と闘いながら、赤ん坊を育てるストレスに、母の心は耐えられなかった。  母は育児ノイローゼになってしまった。  母は朔の病気の世話は、自分で全てこなした。母しかきちんと分かっていなかったこともある。  しかし、家にいる時、美月が泣いていても、ぼうっとして気が付かなかった。 「お母さんの負担を減らしてあげて下さい」  朔が入院している病院で、母のことをこっそり父が主治医に相談した時、主治医はそう助言した。  母は朔のことだけは自分がやると譲らなかったので、美月の世話は父、祖母、そして俺が全てやった。五歳でおむつ替えがこなせた奴は、そういないだろう。  俺は美月が可愛かった。やっと兄妹ができたと思った。  朔は幼稚園に通うことは出来なかったが、小学校は少しだけ通うことが出来た。朔が通えている期間は、母親が俺たちも一緒に車で送ってくれた。  車から降りてくる青白い子に、皆はぎょっとしたが、後から降りてくる俺の姿に、皆安心した。 「じゃあね、満。朔のこと頼んだわよ」  頼まれたところで、学年が違うから、やれることなどたかが知れている。しかも朔だって、身体は弱々しくても、精神は年相応に育っている。  母親の車が行ってしまうと、朔は一人でスタスタと歩いていった。俺が慌ててついて行く。せめて、靴箱までは見守るべきだと思っていた。  しかし、朔には余計なお世話だったようで、不安な様子をおくびにも出さず、俺の方を見向きもせず、教室へ上がっていった。実は、階段を上っている最中に苦しくなったりしないか、母親が心配し、見ていてやってくれと頼まれたのだが、馬鹿らしくてついては行かなかった。  ある時、移動教室への移動中に、朔のクラスの前を通ったことがあった。何気なく見ると、朔が青い顔をして座っていた。休憩時間中で先生はおらず、だれも朔の様子に気が付いていないようだった。俺は見かねて、教室に入った。二年生のクラスに見知らぬ五年生が入ってきたのだから、皆さぞ驚いただろう。注目されているのを感じながら、俺は朔に近寄った。 「おい、大丈夫か?保健室いくか?」  朔は迷惑そうな顔で俺を見て、黙って首を何回も横に振った。どう見ても、大丈夫そうな顔色ではなかった。 「だってお前、その顔色……」 「大丈夫だって言ってるだろ。入ってくんなよ!」  朔は怒鳴った。だが怒鳴り声には力がなく、自転車から空気が抜けていくような声だった。  俺たちを見守っていた朔のクラスメイトの誰かが、教室を出て行くのが見えた。先生を呼びに行ったのかもしれないと思い、俺はクラスを出た。  少し先で待ってくれていた俺のクラスメイトが、心配そうに声をかけてくれた。 「大丈夫か?」  どっちの心配をしているのだろうと思いながらも、俺は鼻の奥がツンとした。  その日、母は学校が終わっても、迎えにこなかった。朔は結局その日早退し、また入院することになったのだ。
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