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言葉を交わしたのは、ただそれだけだった。とくに続く話もなく、互いに視線を戻す。ちらりと彼を盗み見ると、何やら用紙の束を見ているようだった。
実は原稿だったりして、とミーハーなことを思った。お父さんの作品の第一読者として読ませてもらっているとか? もしくは、自分でも小説を書いているとか?
沙和の妄想に影響されているかも、と思いながら、戸崎宗敏の初期の小説を手に取る。借りるか借りないか少し悩んだけれど、松下先生から借りてる短編集も読み終わっていないし、ここで軽く読んでいこうと読書スペースの方へ足を向けた。父親の作品だし、戸崎くんの目の前に座るのは気が引けて、ひとテーブル離れた場所に腰かける。
この作品は読んだことがなかったけれど、やっぱり戸崎宗敏の作品はおもしろかった。物語の中に出てくる景色が思い浮かんで、今すぐにでも絵に描きたくなる。
そんなふうに没頭していると、いつの間にか、掃除の時間を告げるチャイムが流れていた。時計を見ようと顔を上げると、すぐうしろを人が通る気配を感じて振り返ると、戸崎くんだった。
読んでいる本を見られただろうか。これみよがしに父親の本を近くで読んでいる、なんて思われたかもしれない。
「じゃあね」
だけど戸崎くんは、振り向きがてらふわりと微笑んでそう言った。その意外なほど敵意のない表情に、私は少し戸惑ってしまう。
「あ、う、うん。また」
どもった挨拶しかできなかったうえに、『また』なんて言ってしまったことに、あとから恥ずかしくなる。
ドアを開けて出ていくそのうしろ姿を見ると、さっきの用紙の束が入れてあるのだろう、大きめの封筒をかかえていた。それがなんとなくかっこよく見えて、私はしばらくその入口を見つめたまま動けなかった。
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