その頃の茨木~平安京にて~

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 相手のことも己のことも。正しく知らねば理解も出来ぬし、認めようとも思わぬからだ。  本当の意味で、他者を理解することは出来ぬとて。〝理解しようと努める〟ことは出来よう。  朱天が産まれる以前より、大江山鬼族に限らず、人間(ヒト)を理解しようと努めてこなかったわけではない。  歩み寄り、寄り添って共存することだって幾度も考えてきた。それを受け入れなかったのは人間(ヒト)のほうであったのだ。   -拒絶・忌避・嫌悪・恐怖・迫害・排除-  近付くことさえ、疎んでは害し………あまつさえ、滅ぼそうとすら考えたのは、鬼達ではなかったのに………。  謂われなき嫌悪と恐怖による拒絶を、人間(ヒト)は厭わなかったから。理解の及ばぬモノを恐れるのなら、理解しようとすれば良いだけの話であったはずだ。  共存すらも考える鬼達。なのに、人間(ヒト)は理解しようと努めることさえも、しようとはしなかったではないか。  鬼達の落胆と失望は、如何ばかりであったか………。それでも、酒呑も朱天も人間(ヒト)を憎悪も嫌悪もしなかった。それどころか、平安京(たいらのみやこ)を愛し、そこに住む儚き人間(ヒト)を慈しんでもいた。  日々を懸命に生きようとする善良な人々も、大切な者達を護ろうとする武人も存在していたのだから………。
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