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2/6 08:03 a.m.
目を瞑っているというのに、世界が回っているように感じる。
からだの節々が痛くてたまらなかった。即効性のある薬だといって処方されたのに、ちっとも効いている気がしない。せめてもう少し熱が下がってくれれば。寝返りを打つことすら億劫というのはさすがに厄介だ。
ここ三日ほど咳が止まらず、ついに肺が悲鳴を上げ始めた。一昨日の昼から高熱が出て、今じゃ息をすることすら諦めたいくらいだった。意識を飛ばさんとして眠りにつこうと試みるも、ぐるぐると世界が回るばかりでまるで寝つける雰囲気ではない。
――くそ。もういっそのこと殺してくれよ。
頭まで布団をかぶり、襲い来る寒気と絶望の中で、オレは小さく膝を抱えた。
「龍輝」
遠くで、扉の開く音と、耳に心地良い声が聞こえた気がした。
「起きてる?」
どうやら聞き間違いじゃないらしい。姉貴の声だ。
何事かと、もぞもぞと布団から目もとだけを出す。
「大丈夫?」
「入ってくんな。うつるぞ」
「何度言わせるのよ、私にはうつらないってば。毎年きちんと予防接種を受けてるんだから」
あっけらかんとして、姉貴は肩をすくめて笑う。
数ヶ月後に司法試験を控えた姉貴は、合格に向けて絶賛猛勉強中の身だ。ただでさえ時間に追われているというのに、一昨日からオレの身の回りの世話までしてくれている。相変わらずオレに甘いというか、ただの世話焼きというか。
だいたい、予防接種を受けているから絶対に大丈夫なんてことはあり得ない。どれだけ気をつけていたって罹るときは罹る。姉貴の言葉を借りるなら、何度言わせるんだって話だ。
「で、なに」
少ししゃべるだけで咳が出る。ごちゃごちゃ余計なことを考えたおかげで頭も痛い。用件を聞いたらさっさと追い出してしまおうと、早速本題を要求した。
「あぁ、あのね。さっきから鳴りっぱなしだから気になっちゃって、あんたの携帯」
携帯、と頭の中だけでつぶやきながら、オレは少し離れたところにある机の上に目を向ける。ちょうど着信音が途絶えたところだった。
そういえばそんなものもあったなぁと、まるで他人事のように思い出す。寝込み始めてから、ずっと机に置きっぱなしのままだった。
布団を剥いで起き上がろうとすると、「いいよ、取ってあげる」と姉貴が先に動いてくれた。
「わりぃ、勉強の邪魔しちまった。電源切っとけばよかった」
「いいのよ。というか、何か緊急の用事なんじゃない?」
はい、と差し出された黒いスマートフォンに手を伸ばす。かすかに触れた姉貴の手が冷たくて気持ちよかった。
「英美里」
スマホを受け取り、オレは姉貴の名を口にする。
「ほんと、ごめん」
朦朧とする意識の中で紡いだ言葉は、腫れた喉にひっかかってほとんど声にならなかった。何に対して謝ったのか、自分でもよくわからない。
やがて姉貴は、いつものように柔らかい笑みを浮かべて言った。
「今度は元気な時に帰ってきなさいよ」
おかゆでも作るわねと言い残し、姉貴は部屋を出て行った。無駄に広い自室の中で、重苦しい咳の音だけが響き渡る。
手渡されたスマホの画面を見る。
二月六日。時刻は午前八時三分。ポップアップには〈不在着信 9件〉とあった。
誰だよ、と舌打ちしながら着信履歴を確認すると、ほとんどの電話が池月からだった。ついさっきの着信も含め、連続で七回もかけてきている。
一体なんだってんだ。この時間なら、修学旅行二日目の優雅な朝食タイムだろう。
池月からは昨日の朝にも二度ほど電話がかかってきたが、どうせオレが集合時間になっても来なかったことを責めるためにかけてきたんだろう。こちとら熱に浮かされてフラフラだってのに、とその時は徹底的に無視したわけだが、今朝になってさらに七回もかけてきたことはさすがに不可解さを覚えないわけにはいかない。
姉貴の言うとおり、どうやらただ事ではないらしい。
池月からの連絡は電話だけにとどまらなかった。あいつはメッセージアプリを利用し、何やら切羽詰まった様子のメッセージを数通続けて送りつけてきていた。
【百瀬! 頼む! 電話に出てくれ!】
それだけでも事の緊急性は十分に伝わってきたが、次の一文が決定的なダメ押しになった。
【このままじゃ中井が殺人犯にされちまうんだよ!】
殺人犯、という不穏すぎる一言に、眉をひそめずにはいられなかった。
「…………なにやってんだ、あいつら」
さっぱりわけがわからないまま、オレはいつの間にか、池月に宛ててリダイヤルしていた。
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