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2/5 08:26 a.m.
「なにやってんだよ百瀬……!」
スマートフォンを耳に押し当てながら、俺は舌打ちしたい気持ちを懸命にこらえていた。
二月五日、水曜日。午前八時二十六分。
今日から三日間、俺たちは三ヶ月遅れの修学旅行で広島と京都を訪れる予定になっていた。
八時半に羽田空港へ直接集まるという予定は、俺たち修学旅行生の誰もが心得ているはずのことだ。その〝誰も〟には当然、百瀬龍輝も含まれる。
なのに、だ。
集合時刻の五分前になっても、百瀬は姿を現さなかった。あいつと同じクラスであり、俺とは同じ男子バレーボール部に所属する同級生・中井陽太が「なにか聞いてる?」と俺に尋ねてきたことで、俺は百瀬が来ていないことを知った。
「中井」
俺が二度目の電話を百瀬のスマホ宛てにかけていたところで、中井と百瀬の所属する二年三組の担任である坂野先生が声をかけてきた。話し始める前に眼鏡をクイと押し上げるのがこの人の癖だ。
「百瀬なぁ、インフルエンザに罹ったらしいぞ」
「「はぁ!?」」
俺と中井の声が揃った。
「インフル!?」中井が目を丸くする。「マジかよ」
「嘘だ」
驚く中井の横で、俺は断ずるように言った。
「そんな都合のいい話があるわけない。仮病だ。仮病に決まってる」
「いや、そうでもないかもしれないよ?」
そう声を上げたのは、中井と同じ三組の生徒である柏木だった。柏木と俺は一年の頃同じクラスだった仲で、少々やんちゃがすぎる点が玉に瑕だが、基本的には明るくていいやつだ。
「あいつ、月曜はちゃんと学校に来てたけど、なんか体調悪そうな感じだったんだよな」
「言われてみれば」中井が柏木に加勢する。「ちょいちょい咳き込んでたような気がする」
そうなのか。月曜日に百瀬を見かけた記憶がない。
俺の渾身の説得も虚しく、あれから――美姫の事件が幕を下ろしてからも、百瀬が毎日学校へ来ることはなかった。
ようやく顔を見せたかと思えば、しばらくするとまた休む日が続く。俺たちが出逢う前とその意は変わらず、必要最低限の出席日数だけを揃えて卒業するつもりらしい。
それならそれで構わない。もう勝手にしてくれ。
けれど、今日だけは。
修学旅行にだけは、出席してほしかった。
もともと俺たちの修学旅行は十月末の予定だった。美姫の事件が起きたせいで延期せざるを得なくなったのだ。
美姫が修学旅行を人一倍楽しみにしていたことを俺は知っていた。
一学年を半分ずつに分け、二行程で計画された修学旅行で、奇しくも美姫の一組、俺の二組、百瀬の三組は同じ後半日程組だった。当時付き合っていた百瀬と一緒に行けることがよほど嬉しかったらしく、美姫はたびたび俺を相手に「広島焼きって食べたことないんだよね」とか「三十三間堂って、会いたい人の顔に似た仏像があるらしいよ」とか、まるで子どものようなはしゃぎぶりで修学旅行の話をしていた。
だから百瀬は、絶対に出席するべきなのだ。
美姫の叶わなかった想いを継ぐのが、俺たち遺された者の務めなのだから。
「…………なにがインフルエンザだ」
もう百瀬なんて知るか。どうせ直前で面倒になってバックれたに決まってる。
くそ、せめて電話にくらい出ろよ。そうすれば真偽がはっきりするってのに。
「なーに怒ってんだよしょーたろー!」
むすっとしながらスマホを制服のズボンにねじ込んでいると、柏木が俺の頭をぐしゃぐしゃとなで回してきた。
「来られないもんはしゃーねーじゃん! なんだよ、そんなに百瀬と一緒に行きたかったの、おまえ?」
「そうじゃないけど……そうじゃないけどさぁ!」
「まーそうカッカすんなって。せっかくの旅だ、楽しもうぜっ」
はっはっは、と陽気に笑いながら俺の肩をバンバン叩いて、柏木は軽快な足取りで三組のやつらが列を為す場所へと戻っていった。まったく、人の気も知らないで。
「柏木の言うとおりだぞ、池月」
まだ俺の隣にいた中井が、肩をすくめながら言う。
「おまえのことだ、どうせ會田さんのことを考えてたんだろ」
図星丸出しの顔で中井を振り返ると、中井は「やっぱりな」と言って笑った。
「仕方ないさ。インフルエンザはただの風邪とは違う。おれも中学の頃に罹ったことがあるけど、あれはマジでやばいんだ。どうしようもなく死にかける」
「死にかけるって……」
「いや、冗談抜きで言葉のとおりなんだって。死の足音が聞こえるってやつ? きっと百瀬も、今頃布団の上でうなされてるよ」
それに、と中井は集まる同級生たちに目を向けながら続ける。
「百瀬だって、本当は来たかったかもしれないだろ」
柔らかく微笑む中井に、俺も彼と同じほうに視線をやる。
この旅が終われば、俺たちは否が応でも大学受験という荒波にのみ込まれることになる。もちろん百瀬のように進学しないと決めているやつもいるだろうが、いずれにしたって、人生の岐路に立たされることに変わりはない。
地元を離れ、遠く見知らぬ地で作る同級生との思い出は、今回の旅が最後になるだろう。みんなみんな、そう思って今日ここに集まっている。
要するに、俺は寂しいのだ。
目の前に迫る旅路に誰もが胸を躍らせ、想いを馳せるこの出発の地に、大切な友がふたりもいない。
ひとりは地元に。もうひとりは、青空の彼方に。
どちらか片方だけでもいてくれれば、あるいは強くいられるだけの力が湧いたのかもしれないけれど。
「……どうだか」
精一杯強がって、俺は小さく首を振った。
「俺はまだ仮病の可能性を完全に捨てたわけじゃないぞ。あいつは自分の望みを叶えるためだったらなんだってする男だからな」
「ひどい言われようだな、百瀬のやつ。少しは信じてやれよ。そんなんじゃ治るもんも治らないんじゃないか?」
苦笑いを浮かべながら、中井は柏木の後を追って三組の列へと戻っていった。その後ろ姿を、俺はしばらく見つめてしまう。
――信じてやれよ、か。
仮病ではなく、本当に体調を崩してしまったのだろうか。
電話に出ないのも、出ないのではなく、出られないということなのか。
「…………まさか」
鼻で笑う。
あいつに限って、インフルエンザなんて似合いもしないものに罹るはずがない。次に学校へ来たとき、どうやって罵ってやろうか。
そんなことを半ば強制的に考えながら、何気なく後方を振り返った。俺は今、二組の列のほぼ最後尾に並んでいる。
団体の中に身を投じているとなかなか気づきにくいが、空港内は人、人、人でごった返し、話し声やアナウンスの音で騒然としていた。平日の日中でもこんなに利用者が多いのかと、実ははじめて飛行機に乗る俺は心底驚いてしまった。
ちょうど目の前を通りがかった背の高い男性が、ズボンのおしりからスマートフォンを取り出した。その時、四角く平べったい何かがポケットからはらりと地面に落ちた。
「あ」
少し離れたところから見ていた俺だったが、それがICカードの類であることはすぐにわかった。他の通行人は気づいていないのか、気づいていて知らん顔をしているのか、誰も拾ってやろうとしない。
俺はクラスメイトに荷物番を頼み、からだ一つで落とし物を拾いに走った。やはり電車などの公共交通機関で使用するICカードだった。
「あの!」
スマホを片手に歩いている落とし主の男性に、俺は必死に走って追いつき、背中を叩いて呼び止めた。
「これ、落としましたよ」
無言で振り返った男性は、ちょっと見上げなければならないほど背が高かった。Vリーグの選手に間近で会ったことがあるけれど、彼らと同じくらいの威圧感を放っている。一九〇センチを軽く超えていそうだ。
「あぁ、すみません」
がっしり体型と言うにはほど遠いからだをしていたが、声は厚みのある重低音だった。歳は俺より少し上、大学生くらいだろうか。スマホを握ったままの右手で面目なさそうに頭を掻きながら、左手で俺の差し出したICカードを受け取る。
「ありがとうございます。よくやるんですよ、ぼく」
「なにやってんのよ、修司!」
いえ、と俺が答えるのとほぼ同時に、彼の知り合いと思われる女性が近寄ってきた。ロングブーツの尖った踵がフロアを蹴る音が響く。
「やだ、また落としたの?」
「あはは、うん。でも、この子が拾ってくれた」
男性の言葉に従い、女性の視線が俺をとらえる。「あら、そうなの」と女性は長い茶髪を揺らして俺に小さく頭を下げた。
「ありがとう、助かったわ。この人、いろんなものをいろんなところで落とすのが特技なの」
「そう、ぼくの特技」
「特技って……。全然自慢できない特技ですね」
思わず笑ってしまったら、「そうなのよ」とふたりも笑った。
「これから修学旅行?」女性が俺に対して問う。制服姿だったからだろう。
「そうです」
「どちらまで?」
「広島へ行きます」
「あら、奇遇ね。私たちもこれから広島なの」
へぇ、と素直に感嘆したら、女性が意味ありげに口角を上げた。
「修学旅行で広島なら、原爆ドームには行くのよね?」
「は、はい……向こうに着いたら一番に行くことになってますけど……?」
そう、と言うと、女性はスッと俺の左耳に、真っ赤な口紅で飾った口を近づけた。
「気をつけてね……あそこは、出るから」
ささやかれた彼女の声は、氷のような冷たさを帯びていた。ゾクリと背筋に悪寒が走る。
――マジかよ。
原爆ドームで〝出る〟と言えば、連想されるのはやはりアレだ――幽霊。
件の観光地は霊感の強い人が近づくと体調を崩すという話も聞く。まさか……まさか、な。
「こらこら、理沙子ってば」
その声ではっと我に返った。ICカードの落とし主が、女性の腕を引っ張っている。
「ぼくの恩人を脅かさないで」
「ふふっ、だって。なんだかとってもピュアっぽい男の子なんだもん」
ピュアっぽいってなんだ。というか、せっかく拾ってやったってのにからかいでお返しされるなんて。
「おーい、東西コンビー!」
その時、五メートルほど離れたところから男性の呼び声が聞こえてきた。
「なにしてんですかー! 置いてっちゃいますよー!」
ぶんぶんと上げた手を振りながら、モスグリーンのモッズコートに身を包んだ男性はさらに叫ぶ。男性にしては小柄で、まんまるな瞳をしている。髪を明るく染めていることもあり、チワワみたいな顔だなと思った。
彼の隣で、もう三人の男女が俺たちを振り返っていた。
ひとりは仏頂面で目つきの悪い茶髪の男。近づいたら舌打ちの音が聞こえてきそうだ。
もうひとりはマスクをつけているボブヘアの女性。風邪をひいているのか、予防のためかは判断がつかない。あるいは単純に顔を隠しているのかもしれない。事実、人相ははっきりしなかった。
最後のひとりは髪をポニーテールにし、大きめのオシャレ眼鏡をかけた女性。きっと俺より年上なのでものすごく失礼なことだが、ひときわ背が低いこともあり、どうがんばっても中学生にしか見えない。
「ごめーん、すぐ行くよー」
それより〝東西コンビ〟ってなんだろう、西原さんと東山くんとか? なんてことをぼんやり考えていたら、遅れる原因を作った長身の男性がそう答え、「本当にありがとうございました」と俺に改めて頭を下げた。
「いえ、お役に立てて何よりです」
「私からもお礼を言うわ。ありがとう。お互い、良い広島旅行にしましょうね」
それじゃ、とふたりは俺に手を振って、前方で待つ四人のもとへと駆けていった。ちょうど俺もクラスメイトに「祥太朗ー! もう行くってー!」と呼ばれ、束の間の出逢いを回顧する間もなく、修学旅行の始まりを迎えることになった。
俺が彼ら六人との再会を果たすのは、今から数時間後の黄昏時。
初日の宿である、広島市内のとあるホテルのロビーでのことだった。
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