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2/6 06:55 a.m.
何時に眠りについたのか、正直よく覚えていない。日付が変わったのを確認したのは間違いないのだけれど。
眠りが浅かったらしく、誰かが部屋の扉をノックする音で目を覚ました。登り始めたばかりの二月の朝日がカーテンの隙間から細く差し込んでいる。
スマホを確認すると、時刻は午前六時五十五分。起床予定時間まであと五分というところだった。
他には誰も起きていなかったので、目をこすりながら扉を開ける。鍵は扉を閉めると自動でかかる、いわゆるホテル錠が採用されているため、ルームキーなしに外から開けることはできない。
「あぁ、祥太朗」
俺たちの客室を訪れたのは柏木だった。その顔は妙に真剣で、おはようの挨拶もない。寝ぼけ眼にも、なにか困ったことになっているらしいことは伝わってくる。
「どうした?」
「あのさ……中井、こっちに来てない?」
「中井?」
いや、と俺は室内に目を向ける。
「うちの班のやつらしかいないけど」
「マジで? うそだろ、ここでもないのか」
「なんだよ、中井がどうしたって?」
「いないんだよ」
告げられた事実をのみ込むまで、少し時間を要した。
「いない?」
「うん……昨日の夜、点呼を受けたあとにこっそり部屋を抜け出して鶴見ちゃんに会いに行ったきり、戻ってきてなくてさ」
わけがわからず、俺は眉間にしわを寄せた。ちなみに『鶴見ちゃん』というのは一組の鶴見杏菜さんのことで、俺と柏木は一年の頃に同じクラスだった女の子だ。そして鶴見さんは現在、我らが男子バレーボール部のキャプテン・中井陽太と付き合っている。要するに中井は昨夜、鶴見さんとの秘密の逢瀬を楽しんでいたというわけだ。
「戻ってきてないってどういうことだよ?」
「それがわっかんねぇからおまえに訊いてんだってば! さっき鶴見ちゃんにも訊きに行ったけど、昨日の十一時には密会を切り上げて、それぞれ自分の部屋に戻ったって言ってるんだよ」
「けど、中井はおまえらの部屋には戻らなかった?」
「そう。どうせ部屋を移動したってバレないんだ、他のやつらの部屋で遊んでそのまま眠っちまうなんて特別おかしな話じゃないっしょ? きっと祥太朗のところにでも行ってるんだろうなって思って、おれたちはおれたちで盛り上がってたんだ」
確かに、柏木の話には一理ある。しかし、どうにも中井らしくないなと思った。
やんちゃな柏木とは違い、中井は比較的穏やかな優等生タイプだ。石橋を叩いて渡るとまでは言わないけれど、リスキーなことはどちらかというと避けたがる。鶴見さんとの逢瀬ですでに危険を冒しているわけだから、終えればまっすぐ自分の部屋に戻りそうなものだ。
そんな中井が、一晩経っても部屋に戻っていない。言いようのない不安が押し寄せ、俺は背筋に薄ら寒いものを感じた。
「携帯は鳴らした?」
「当たり前じゃん。つながってたらここには来ないって」
だよな、と俺は腕組みをする。充電がなくなり、電源が落ちてしまっているのだろうか。
「――おーい、瀧田ー。いい加減開けてくれよー」
その時、廊下から誰かの声と扉を叩く音が聞こえてきた。柏木とともに音のするほうを見やると、声の主は例の落とし物名人の美大生だった。彼の後ろにもうひとり、小柄で丸顔の男性が両手を腰に当てて佇んでいる。
どうやら昨日の閉じこもり騒動は朝まで尾を引いたらしい。柏木とひと悶着起こしてへそを曲げた目つきの悪い男――瀧田さんというらしい――は、鍵を部屋に持ち込んだまま一晩中こもりきりだったようだ。
やがて、俺たちから見てその部屋の一つ奥の客室から、オシャレ眼鏡をかけた見た目中学生の女性が出てきて男たちに話しかけた。
「フロントに電話しました。マスターキーで開けに来てくれるそうです」
「そう、わかった。ありがとねぇ、ゆかりちゃん」
落とし物名人さんが言うと、見た目中学生の女性――ゆかりさんはぺこりと頭を下げてもといた部屋に戻っていった。俺たちの部屋から見ると、瀧田さんの閉じこもっている部屋が手前、ゆかりさんが出入りした部屋が奥である。
なんとなく、嫌な予感がした。
中井が行方不明になり、同じフロアの別の部屋では閉じこもり騒動。こんな近いところで、同時に二つもトラブルが起きるだろうか。
パジャマにしていたチャコールグレーのスウェット姿のまま靴を履き、俺は足早に落とし物名人さんのもとへと向かった。絨毯敷きの床なので足音はほとんど聞こえないが、後ろから柏木がついてくる気配がする。
落とし物名人さんはすぐに俺たちのことに気づき、「やぁ」と片手を上げてくれた。
「おはよう、ぼくの恩人さん」
「おはようございます」
「そっちのきみは、昨日瀧田に絡まれちゃった子だね。本当に悪かったよ、ごめんね」
柏木は黙ったまま小さく頭を下げるだけだった。まだ完全には許す気になれないとその顔に書かれている。
「部屋に入れないんですか?」
俺が尋ねると、落とし物名人さんは「そうなんだ」と頭を掻いた。
「まったく……困ったもんだよ、瀧田のやつ。きみたちともめて拗ねちゃってから、ずっと部屋にこもったままなんだ。この部屋にはぼくと沢代くんも一緒に泊まるはずだったんだけど、瀧田のおかげで昨日は隣の女子部屋で雑魚寝する羽目になってさぁ」
「なにが困るって、荷物が取れないことっすよね」
沢代と呼ばれた小柄で丸顔の美大生がぼやく。
「せっかくパジャマ持ってきたのに……おれ、浴衣苦手なんだよなぁ」
身につけているホテルの浴衣を渋い顔で見つめる沢代さん。彼の気持ちは少しばかり理解できる。着慣れない寝間着やいつもと違う枕ではゆっくり寝られないということだろう。
「ところで、恩人くん。ぼくたちになにかご用かな?」
落とし物名人さんがきっかけを作ってくれ、俺はようやく本題を切り出した。
「すみません、ちょっと聞きたいんですけど」
「なんだい?」
「昨日ここでもめ事になった時、こいつと一緒にいたやつを覚えていますか?」俺は柏木の肩に手をやりながら言う。
「あー、うん。なんとなくなら」
「真面目そうな子でしたよね」と沢代さんがアシストしてくれる。そうそう、と落とし物名人さんも沢代さんに目を向けながらうなずいた。
「あの……そいつのこと、どこかで見かけませんでした?」
え、と落とし物名人さんは少し目を大きくする。
「いやぁ……どうだろう。あれからぼくたち、お風呂に入りに行っちゃったからな。ねぇ、沢代くん?」
「そうっすね。何人か高校生とすれ違ったことは覚えてるけど、いちいち顔なんて見ねーからなぁ。風呂のあとはほとんど出歩いてないし」
沢代さんは冴えない表情で腕を組んだ。普通はそうだよな、と俺は芳しくない回答に肩を落とす。
まもなくして、ホテルの従業員がマスターキーを持ってやってきた。「お待たせ致しました」というホテルマンに、落とし物名人さんは「お世話をかけます」と申し訳なさそうに頭を下げた。
マスターキーで開錠すると、ホテルマンはさわやかに会釈して立ち去った。百戦錬磨の彼らにとって、今回のようなケースは些細なトラブルに過ぎないのだろう。
それじゃあね、と小さく手を振り、落とし物名人さんたちは客室の中へと消えていった。廊下に残された俺と柏木は、困り顔を突き合せる。
「どうするよ、祥太朗?」
「とりあえず先生に報告しよう。もしかしたら急病で……」
俺の言葉を遮ったのは、客室の扉を勢いよく開けて出てきた落とし物名人さんだった。
「お、恩人くん……っ!」
あわあわと唇を震わせ、部屋の中を指さす落とし物名人さん。一体どうしたというのか。
落とし物名人さんに無言のまま促され、俺はおそるおそる部屋の中を覗いてみた。その瞬間、大きく息をのみ込んだ。
奥の和室へとつながる障子戸は開けられ、部屋全体に明かりが灯されていることが一目でわかる。その障子戸の敷居にかかるように投げ出された二本の足が、俺たちのほうを向いていた。
誰かが、畳の上で倒れているのだ。
その誰かが誰なのか、俺には一瞬で理解できた。
靴を脱ぎ捨て、足音高く短いフローリングの床を駆ける。
障子戸に手をかけ、足もとに倒れるその人物に視線を落とした俺のからだに、雷が落ちたような衝撃が走った。
「中井……!?」
うつ伏せの状態で倒れていたのは、黒いジャージに身を包んだ同級生・中井陽太だった。
「中井ッ!!」
慌てて中井の脇にしゃがみ込むと同時に、視界の端に別の人影が映り込んだ。
和室内をおおまかに二分して、障子戸を入った左側。丁寧に敷かれている三人分の布団のうち、一番手前の布団の上で、沢代さんが青い顔で腰を抜かしていた。ぶるぶると震えながら、真ん中の布団の上を見つめている。
彼の視線を追った俺の心臓は、一瞬その動きを止めた。
清潔感あふれる白だったはずの布団が赤黒く染まっていた。その赤い海の上には、ひとりの男性が横たわっている。
血まみれでぴくりとも動かないその男は、昨夜柏木とひと悶着起こした、瀧田さんだった。
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