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僅かに顔を引いて、助手席の女性を見下ろす。
実夏は僅かにこちらへ身を寄せ、右手を西園寺の肩に、左手を胸元に触れていた。
薄いピンクの口紅を引いた唇が、小さく開いている。
「西園寺さん……、四郎さん」
その、長い睫毛を伏せるかのように、やや目を細め、唇に笑みを浮かべ、見上げてくる。
西園寺の無骨な手が、無造作に胸元に寄せられた手を引き剥がした。
「あんたは母親なんやろ。こんなことしとったら、あかん」
ぶっきらぼうに告げられて、一瞬、実夏の表情が強張ったように、見えた。
「母親、ですか。……四郎さんのお母様はどんな方でした?」
「は?」
しかし突然問いかけられて、間抜けな声を漏らす。
実夏は変わらず微笑を浮かべているが、茶化すような雰囲気でもない。
「どんな、て……普通です」
「普通?」
戸惑ったまま口を開くと、そのまま問い直される。少々むっとして、続けた。
「普通ですよ。普通に食わせてくれたし、普通に凍えさせられへんかったし、普通に家ん中にいられた。全部、普通のことやないですか」
「寄り添ってくれた? 受け止めてくれた? 尽くしてくれた? 愛して、くれたの?」
西園寺の唇は、珍しく嘲りに歪む。
「母親に愛されてないか、なんて悩むんは、高校生までにしとくべきや」
胸から引き剥がした実夏の手は、軽く掴んでいただけだった。彼女はそっとその手を外し、そして男の頬に触れる。
愛おしげに。
「安らぎをあげる。寄り添ってあげる。どんな感情も受け止めてあげる」
頬を撫で、指先が耳の縁をなぞる。
「……どんな、感情も」
繰り返す声が、僅かに掠れた。
「どんな感情も」
実夏は笑みを絶やさない。
肩に置かれた手が、力を籠めた。
逃がさない、と言うように。
「愛してあげる」
するり、と言葉が流れ出た。
指は、男のこめかみの髪に入りこみ、ゆっくりと撫でつけている。
時折肌に触れる指輪から、金属の冷たさが滲む。
じっとりとした熱がこもった吐息が、漏れた。
「あのこたちみたいに」
バックミラーに、森の中からゆっくりと歩み出る人影が、映っていた。
歩き方はどこかたどたどしい。
一歩ごとに、上体が揺れ、ふらふらと危なっかしく動いている。
両手はだらんと身体の横に垂らしたままだ。
暗がりの中にいて、表情は、感情はよく判らない。
その人影が、三体。いや、四体。五体。
「何も不安がることはないの。私が、守ってあげるから。誰も、あなたに触れさせない。誰も、あなたを連れていったりしない。私といれば、わたしとずっといれば、幸福なのよ」
西園寺が横目で周囲を伺っていることなど気にもしないのか。実夏はその胸にしなだれかかるように身を寄せた。
どん、と車が揺れる。
一人が、車のトランク部分に両手をついて、車内を覗きこむように身を乗り出していた。ぎし、ぎし、と、身体を揺らすたびに車が軋む。
ばん、と他の一人が助手席の窓に手を押しつけた。
べったりと、泥のような何かが付着して、掌とガラスの間を埋める。
運転席の窓に。
フロントガラスに。
ルーフに何かが乗ったらしい音が響く。
ここにきて、おおっぴらに西園寺は周囲を見回した。
……八体の、人影。
月と星と夜景の光は、逆光となって、相手の姿は判然としない。
その身体から何かが垂れ下がり、時折ぼたぼたと落下するのが視認できる程度だ。
「怖がることはないわ、四郎さん」
その動きをどう思ったか、実夏は宥めるように告げた。
「みんな、優しいこたちだもの。優しい、寂しいこたちなの。あなたと一緒」
鋭く、息が吐き出された。
鼻で笑ったのだ、と、実夏は気づいただろうか。
後ろ手でパワーウィンドゥを操作する。後部座席の窓が、ほんの一、二センチ開いた。
瞬間、凄まじい臭気が流れこむ。
西園寺は顔色一つ変えない。
実夏も、陶然とした表情を崩さない。
崩れるとしたら、それは。
「次郎五郎。九十郎。存分に、喰らえ」
ルーフの上にうずくまっていた人影が、横合いから飛び掛ってきた黒い獣に、そのまま地面へと突き落とされた。
水っぽい、何かが崩れたような、ぐしゃりという音が響く。
鋭く、実夏が息を飲む。
黒い獣は、大きく首を振って何かを喰い千切った。
車を挟んで反対側にいた銀色の獣は、手近なものの脚の腱に的確にかぶりつく。
「いや……、いや、やめて! やめてぇえええええ!」
目を大きく見開き、絶叫しながら、実夏は西園寺越しに手を延ばした。
黒衣の男は、ただじっとそれを見下ろしている。
一転して目の前の男への関心を失い、ただの障害物だと判断したかのように、実夏はくるりと身を翻した。
がちゃがちゃと助手席の扉を開けようとノブを引き、ロックを外そうと視線を周囲に走らせる。
だが、この車は特別だ。そう簡単に、ロックを外せはしない。
その間も、一体、また一体と、人影は崩れ落ちていく。
「やめて、お願い! いや! いやぁ!」
半狂乱になった実夏を、ただじっと見極める。
あの二頭の犬は、西園寺が使役する犬神だ。
彼の命令には絶対服従し、全力を行使し、そして、そう、酷く飢えている。
実夏は叫び声を上げ、窓ガラスをその拳で叩いていた。
「私の、わた、わたし、の、子供が、坊やが、いや、あ、やああ!」
そして、西園寺は、そっとその両拳を掴んで、引き寄せた。
「離し、て。たすけて……」
ぼろぼろと流れる涙を拭うこともなく、弱弱しく呟く。
西園寺は背後から身を寄せて、囁いた。
「落ち着いて。よぅ見ぃ。あれは、あんたの子供やないやろ?」
「わたし……わたしの、こども、が」
「違う。あんたの子供は、ほんの三歳やないか。あんな、下手したらあんたよりも大きい子供やなかったやろう」
「わたしの……わたし、の」
力なく、いやいやをするように首を振る。
「あんたのたった一人の子供は、どこにおるんや?」
「あのこ……は」
実夏の両手から、力が抜けた。西園寺の手から離れ、ぱたり、と自分の膝の上に落ちる。
「……あのこは、し、死んでしまった、って」
「……死んだ?」
かちかちと歯を鳴らしながら、実夏は頷く。
「お義母様から電話がきて。預かっている間に、死んでしまったって。もうお葬式も済んで、お骨も、向こうのお墓に入れてしまった、から、って。もう、わたしのところには、帰ってこない、って」
「ほんまなん?」
拭うことのない涙が、頬をつたってぽたぽたと落ちる。
「ファックスが、お寺の方に、きた、の。し、死亡診断書、と、お葬式の写真と、お仏壇に、写真が飾っ」
そこで、とうとう、実夏は号泣した。
ただ一人の、小さくいとけない彼女の子供のために。
流れ落ちる涙が、指に嵌められた石榴石の指輪に跳ねて、小さく光を反射した。
母なんて、なにもしてくれなかった。
吐き捨てるように、彼は答えた。
お母さんがいたら、こんな感じなのかな。
照れたように、彼は答えた。
今更母親を求めるなんて、って怒られましたよ。
寂しそうに、彼は答えた。
だから。
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