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星
夕方に、家の外に出る。
日暮れの兆候は、まだ淡い。
十数分、煙草を吸いながら立っていると、予想した通りに相手は現れた。
「刑事さん」
僅かに驚いたように、声をかけてくる。
「駒井さん」
駒井頼子は、手に紙袋を持っていた。
「もうええて言うたのに」
小さく笑った西園寺に、思わず、といった風に頼子も顔をほころばせる。
「主人のこともありますけど、駐在さんにはお世話になってましたから」
今夜の夕食と、昨日貰ったタッパーウェアを交換する。
「ワシは、明日の午前中にはここを発ちますさかい。これはどうしましょう。お返しに上がった方が?」
「そ……そうなんですか? ずっといてくださるのだと」
「代わりの駐在は近々配属される筈です。捜索も、まだ続けられますよ」
西園寺の仕事は、どうなるか判らないが。
頼子は視線を落とし、その細い肩を縮める。
「お世話に、て言うのは、どういった?」
だが、続けて尋ねられた言葉に、びくりと顔を上げた。
「いえ、その、特には」
「村岡がつけていた日誌がありました。月にニ、三回、駒井さんのお宅へ呼び出されてたそうですね」
滑らかに続けられて、女性はおどおどと視線を逸らせた。
「義父が、その、お酒を飲むと暴れることがあって。主人がそれに応じて騒ぎが酷くなったことが、数回……」
「茂樹さんが失踪してからも、何度か呼ばれてますね」
ぎゅ、と、紙袋の取っ手を握り締める。
「駒井頼子さん。暴力は、貴女に向かってませんか?」
「いいえ!」
ぶんぶんと、頭を振った。首の筋が、薄く浮いている。
小さく、吐息を漏らす。
「旦那さんがおらへんようになって、もう二ヶ月や。ご実家に戻っても、ええ頃合とちゃいます?」
一転して、軽く西園寺は告げた。
ぽかんとした顔で、頼子は見上げてくる。
「でも、そんな、私は嫁いだ身ですから……」
「気晴らし程度でも、ええやないですか。ご実家、遠くはないんでしょ? 車の免許は持ってはります?」
「はい、車なら十五分ぐらいで。でも、……都会の人って、そんな簡単に実家に戻るんですか?」
探るような物言いに、笑ってみせる。
「実家が遠かったら、まあそんな頻繁ではないやろうけど。少なくとも、盆か正月には戻るんとちゃいますかね。ワシは独り身やけど、同僚とかが奥さんの実家に行くとか、よぅ言うてましたよ」
「そう……ですか」
視線を、ふらふらとさまよわせる。
が、じきに真っ直ぐに一度目を合わせて、深く頭を下げた。
「お気遣いありがとうございます。タッパーは、朝、この玄関先にでも置いておいてくださったら、明日のうちに取りに来ます」
「こちらこそ、おおきに。昨日のご飯も、美味しかったですよ」
顔を上げた頼子は、笑っていた。
居間で、煙草を吸う。
静かだ。
テレビは点けない。
昨夜、ニュースでも見るかと点けてみて、NHKの他には民放が二局しか映らないことに驚愕したが、まあそのせいではない。
紫煙を、長く吹き上げる。
どれほどの時間が過ぎただろうか。
静寂の中に、インターホンが、鳴った。
「……いきなりドア開けられるんかと思ってましたわ」
玄関の外には、山崎実夏が微笑みながら立っていた。
「西園寺さんは、明日帰られるのですって?」
「誰から聞きましたん?」
にこやかに問いかけてくる女性は、変わらない。
薄い水色で花模様が描かれたシャツは、襟元がぎりぎり鎖骨が見える程度の深さだ。そして、紺色の、膝下までのフレアスカート。手には、白の透けるようなショールをかけていた。左手の薬指には、楕円形の暗赤色の石の指輪。薄化粧に、淡いピンクの口紅。
決して派手ではないはずなのだ。清楚と言ってもいい。
だが、この村の中では、確かに垢抜けていると見えるだろう。
「水野さんの奥様から。私のところにお話がくる頃には、もう村の人みんな知ってると思いますけど」
「……凄いなぁ、ホンマ……」
水野という家には行った覚えがない。
田舎の情報伝達の速さは本当に桁違いだ。
「まあ、いつまでもここにおっても、見つけられる訳やないんで。明日には県警に引き継いで帰る予定です」
「そうなんですか。大阪の方と久しぶりに会えて、懐かしかったのですけど。寂しくなりますね」
残念そうに告げて、そして、実夏はやや身を乗り出した。
「ねぇ、西園寺さん。帰る前に、秘密の場所に行きませんか?」
黒光りするボンネットが、街灯の光を反射する。
西園寺の車は、山道を走っていた。コンクリートで固められた山肌が、視界の隅から灰色の姿をせり出してきている。
谷川にかかる橋を、一つ越えた。
「この辺りは、まだ村の中ですか?」
「ええ」
カーナビの画面に注意しつつ進む。
「もう少しです。次の次のカーブを曲がったところで、左手に空き地があるのでその奥へ進んで」
実夏が告げるが、カーナビの画面にはそれらしい道はない。
しかし、その言葉通りに、舗装されていない、砂利の多い空き地が現れた。
ゆっくりと車を入れていくと、なるほど木々の下に、ぽっかりと空間が空いている。
「これは、進んでええんですか?」
流石に、知らない道、しかも街灯もない道へ夜間に入っていく度胸はそうそうない。
「幅は広いですし、周りに崖はありませんから大丈夫ですよ」
あっさりと返されるが、免許を持っていない人間の「大丈夫」は、あまり当てにならない。
「……ゆっくり行きましょう」
おそらく、こんな時間、こんなわき道に後続車も来るまい。
ヘッドライトの光だけを頼りに、轍のくっきりと残る道を進む。
途中、フェンスが続く場所があったが、道は遮られていなかった。その奥の方に、納屋だろうか、平屋の建物が一つ二つ暗い影となって建っていた。
がたがたと、揺れながら十数分ほど走っただろうか。
前方の木々がまばらになり、月の光がぼんやりと差しこんでくるようになった。
そして車は、男女は、ぽっかりと開いた土地へと入りこむ。
多少の予測はしていたが、西園寺は息を飲んだ。
目の前は、下り斜面に面していた。木々や山のような、遮るもののない夜空は一面に広がり、煌く星々を湛えている。
そして眼下には、遠くの街の夜景が、白く、赤く、光を滲ませていた。
大阪の街で、そのただ中からの夜景は幾らでも見た。
神戸の山の手から、街を見下ろす夜景も、見たことはある。
だが、この、迫り来るような星空の下では、初めてだ。
これだけ星が見えるということは、つまり人工的な光の威力はさほど大きくないということでもある。
対比的に、自然の巨大さと、人の卑小さとを思い知らされてしまいそうだ。
「……凄いもんやな……」
流石に言葉を詰まらせる男の胸元に、そっと白い手が這った。
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