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八日前
風の中には、まだ冬の冷たさが少しだけ残っていて、そのつんとした空気に八木美恵子は眉を寄せた。
今日は早めに部活が終わった。ここしばらくはずっとそうだ。
大会も近いのに、と思って、小さく溜め息を落とした。
陽も長くなってきたし、暗くなるにはまだ時間がある。僅かに迷ったが、美恵子はこれから病院に友人を見舞いにいくことに決めた。
通学路から少し外れたところにある、総合病院。もう何度か訪れたことがあり、職員に尋ねなくとも病室には辿りつくことができる。
淡いグリーンに塗られた壁には、戸口の横に白いネームプレートが取りつけられていた。
吉谷穂乃香。
美恵子は扉の前で立ち止まり、一度深呼吸した。そして、自然な、できる限り自然な笑顔をつくる。
二度、短く扉をノックして、ドアノブを回した。
「ほのちゃん、こんにちは……」
室内の視線が、こちらに集中する。
清潔なベッドに上体を起こしている、少女。
常日頃、美恵子が憧れていた長くまっすぐな黒髪が、普段よりも青白い顔を縁取っている。怯えたような目を向けてきたが、入ってきたのが美恵子だと判ると安堵したように表情を和らげた。
そして、その側のパイプ椅子に腰掛けていた、一人の男。
年の頃は二十代半ばぐらい。黒い背広。黒いネクタイ。黒い靴。ごく普通である、黒い髪も黒い瞳も、何やらざわりと心の中に波を起こす要因となる。
むしろ白いワイシャツが、何故だか酷く違和感を感じさせた。
滑らかに、男が立ち上がる。
「ほな、今日はこれで失礼するわ。お友達も来たことやしな。お大事に」
唐突に男の口から放たれた関西弁に、数度瞬く。
「はい……」
力なく頷く穂乃香を置いて、男は戸口へと近づいてきた。ぼぅっとその様子を見つめていた美恵子が、目の前で立ち止まられて、息を飲んだ。
「え、え?」
「通して貰てええ?」
「あ、はい!」
戸口をふさいでいたことに気づき、慌てて一歩引く。ありがと、と人懐こく笑んで、男は廊下を歩いていった。
呆然とその後ろ姿を見つめる。
「みえちゃん?」
訝しげな友人の声に我に返った。慌てて病室内に入り、後ろ手に扉を閉める。
「い、今の人、なに?」
勢いこんで訊くと、穂乃香は困ったように眉を寄せた。
「んー。うん、ちょっと……」
自分の質問が友人を困らせている、と見て、急いで美恵子は話題を変えた。強引だし、明らかにとってつけたような行動だが、穂乃香は見るからにほっとした表情になる。
彼女に、これ以上負担をかけたくない。
美恵子のその思いは強い。
ちらり、とあの男の姿を思い出し、その不吉さに小さく背筋を震わせはしたが。
正面玄関は既に閉まっていたので、脇の通用口から外に出る。陽が随分と傾き、風も冷たさが増している。
小さく溜め息を落として、足を進めた。
話題はそもそもあまりない。クラスメイトの言動、授業で教師が披露した面白い話、部活での出来事。
しかし入院して学校へ来られない穂乃香には、それは辛い話題かもしれないのだ。
『彼女』が傍にいれば、気にしすぎだと笑ってくれるかもしれないが。
……いや。そんなことは、ない。
再び溜め息を漏らす。次いで吸いこんだ空気には、僅かに奇妙な匂いが混じっていた。
煙草、だ。
視線を上げて、周囲を見回す。少し離れた路上に一台の黒い車が停まっていて、その歩道側に男が立っていた。
黒服を認めて、思わず足を止める。
手慣れた仕草で咥えていた煙草を携帯灰皿へ放りこむ。笑みを浮かべ、男はこちらへ向き直った。
「遅ぅまでお疲れさん。送っていこか?」
馴れ馴れしくかけられた言葉に、硬直する。
彼の容姿が。
彼の存在が。
彼の魂が、声高に主張していた禍々しさが、ここにきてはっきりと形を成した。
「……っ、結構です! 一人で帰れます!」
悲鳴じみた声で拒絶して、男がいる方向とは逆に走り出した。最初の角を反射的に曲がる。
そうだ。あれは、あれは。
変態だ---------!
荒い息を抑えて、肩越しに背後を振り返った。
走ることには自信がある。それでも、相手が成人した男だと思うと怖くて、彼女は懸命に足を動かした。
ひたすらに走り続け、何度も角を曲がり、ようやく振り切れた、と確信できた。長く息を吐いて、コンクリートブロックの塀にもたれかかる。
陽はすっかり沈んでしまっていた。母親が心配しているな、と思って視線を上げる。
「……あれ?」
一瞬、現状を認識できなくて小さく呟いた。
周囲の町並みに、全く見覚えがない。
「……迷っ、た?」
そう言えば、病院を出てからどこをどう走ったのか、よく覚えていない。そもそも、病院の場所自体が、自分の普段の行動範囲からは外れている。これでは迷ってしまうのも無理はないことだった。
仕方がない、母親に電話して迎えに来て貰おう。住宅街だし、番地はすぐに判るだろう。少々怒られるかもしれないが、それぐらいは……。
鞄から携帯電話を取り出し、慣れた動作で起動させる。
「あれぇ?」
再び、間抜けな声を漏らす。待ち受け画面の上端にはアンテナが表示されておらず、圏外という無情な文字が光っていた。
「え、なんで? なんでよ?」
うろたえて、その場でくるりと一周してみたり、携帯電話を高く掲げてみたりする。しかし、ほんの一本もアンテナは立ってくれない。
ここは住宅街だ。建物の中だったり、地下だったりするわけではない。たまたま電波が弱いことはあるかもしれないが、圏外が続くことなどあり得ない。
ぞくり、と寒気を覚えて、周囲を見回す。
今は、平日の夕方だ。住宅街で、帰宅する人間がいないはずがない。なのに、病院からここまで走ってくる間、一人たりとも通行人の姿を見た覚えがなかった。
なんだろう。なんだろう、これは。
ざわざわと、背筋が嫌な感じに騒ぐ。
突然、ばちん、と音を立てて、前方に点いていた街灯が消えた。
「きゃ……!」
視界が効かなくなって、小さく悲鳴を漏らす。
大丈夫、偶然だから、大丈夫。
少し離れた所の街灯は点いている。あそこまで行けば、きっと。
必死に自分を励ましながら、美恵子が数歩足を進めた時に。
前方の暗がりの中から、ひたり、と小さな足音が聞こえた。
「ひゃ……!」
息を飲んで、足を止めた。
足音もそのまま止まってしまったことで、はっと我に返る。
きっとただの通行人だろう。ひょっとして、先刻からの妙な行動も相手に見られていたのかと思うと、羞恥で思わず赤面する。
ひたり、と足音が再び響く。
暗がりに目が慣れてきたのか、前からくる人影がぼんやりと判別できるようになってきた。
白っぽい足。白っぽい体。白っぽい腕。白っぽい、頭。
……頭?
相手は光源を背に立っている。なのに、どうして、全身がべったりと白く見えるのか。
右手の長さが、左手に比べて奇妙に長く、細い。
その先端が鈍く光を反射するのを目にして、美恵子は無意識に一歩引いた。
ひたり、と相手が一歩進む。
もう一歩、一歩、そして踵を返して、一気に駆け出す。
前方には、全くの闇が広がっていた。
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