八日前

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 今回は悲鳴を聞いた通行人が駆けつけたためか、犯行は未遂に終わっている。  穂乃香は犯人を全く見ていないらしい。  そして奇妙なことに、一切の外傷を受けていないのに、何故か彼女は立ち上がることができなくなっていた。  そろそろ二週間ほど入院しているが、原因は判らない。心因的なものではないか、と医師は言っているようだ。  当然、近隣地域は再び厳戒態勢に入った。美恵子の通っている中学校では部活動は縮小もしくは停止され、複数の生徒で固まっての登下校、保護者の見回りなどが行われている。  そして今日、美恵子が襲われたのだ。 「西園寺さんは、聡美ちゃん……、宮田さんに会ったんですか?」  固い声で尋ねる。  聡美が今どうしているのか。どんな気持ちでいるのか。知りたいが、彼女から一切接触がないことが、知られたくないという意思である気がして、返事が怖い。  だが、男は軽く口を開いた。 「ん? いや、ワシは吉谷さんの事件の担当やからな。宮田さんには、まだ()うてへん」 「違う事件、なんですか?」  思いがけないことを聞いて、問い返す。 「吉谷さんは未遂やろ。別に手口が似とる訳でもないし、犯人の顔を見た訳でもない。同一犯人て決めつけんのは、今のところ無理や。……まあ、関連が全然ないとも思うてへんけど」  で、と言葉を継いで、男は短く美恵子を見つめた。 「今日、何があったん?」  ぎゅぅ、と膝の上で指を組み合わせる。  無言で通す訳にもいかないだろう。震えだしそうな身体を何とか押さえて、言葉を絞り出した。 「慣れていない道だったので、迷ってしまったんです。携帯で家に電話しようとしても圏外だし、いきなり街灯が消えちゃうし……。そしたら先刻(さっき)の人が近づいてきたから、逃げ出して、追いつかれたところで西園寺さんが来てくれて」  泣くのを半ば堪えつつ、やっとそれだけを告げた。ふむ、と小さく呟いて、男は車を右折させる。 「その追っかけてきた奴、姿は見えた?」 「いえ、暗かったので……。ぼんやりと見えただけで」 「背格好とか、どれぐらいの年齢やったかとか。印象で構わへんさかい」  知らず眉間に皺を寄せ、懸命に思い返す。恐怖心が再び沸き起こるが、今、ここは安全だ。犯人が逮捕されれば、もっと絶対的に安全になる。 「背は、私より少し大きいぐらいでした。太ってはいなかったです。何となく、そんなにおじさんって感じではなかったような……」 「男やったんか?」  ふと突っこまれて、瞬いた。 「いえ、はっきり判った訳じゃなくて。でも、へ……夜道で後をつけてくるのは男の人かなって思っていたから」  ある単語を使いかけて、ぎりぎりで言い換える。それに気づいたのかどうか、西園寺はまあそうかもなぁ、と苦笑しながら呟いた。 「あと、ちょっと訊きたいんやけど」  明日の天気でも尋ねるように、さらりと言葉を続ける。 「八木さんは、妙なもんとか日常的に見える人か?」  指先だけが、ひくり、と動く。 「何ですか? 妙なもの、って」  問い返した美恵子の顔を見つめて、西園寺は僅かに不思議そうな表情を浮かべた。  年齢や雰囲気には合わない、奇妙に無邪気なその仕草に場違いに笑みを浮かべかける。 「ま、ええわ。で、もうじき(うち)やけど、どうする?」 「どう、って何がですか?」  この男の尋ねることは、時々要領を得ない。 「今日、何で遅くなったか、おうちの人に正直に話すんか? それとも、話したないか?」  確かに、先ほど母親に電話をした時には、単純に見舞いに行って遅くなったと言っていたのだ。それは詳しく話せるほど何があったのか判っていないせいだったが。  しかし落ち着いて考えれば、夜道で不審者に追いかけられたなど、親に話したい内容ではない。  確かに恐怖感は生々しく残っており、話して慰められたい、安心したいという気持ちはある。  だが、自分が不審者のターゲットになってしまったということ、そしてそれを知られるということは、恥ずかしいというか不愉快だというか、そう、つまり、その、酷くきまりが悪いのだ。 「は……話した方が、いいんですよね……」  俯いて、小さく呟く。  刑事だと名乗った西園寺にしてみれば、そうするのが当然だと諭されると思っていた。  しかし。 「いや。そりゃ勿論、八木さんの気持ち次第やけど、ワシとしては黙ってて欲しいと思ってる」 「え?」  思いがけない返事に、まじまじと運転席の男を見つめた。  それをどう思ったか、慌てて彼は言葉を継いだ。 「いや、隠蔽(いんぺい)するとか()うんとちゃうで。ちゃんと上には報告するし、二度目はないように手は打つ。けど、襲われたって周りに言い回るんはちょっと止めておいて欲しいんや」 「私がそうしたら、犯人を捕まえられるんですか?」 「(さと)いなぁ。その可能性が高くなる、とは踏んでる」  僅かに迷って、無言で頷いた。男は相変わらず人懐っこく笑って、おおきに、と声をかけてきた。  仕事に対して真面目のようだし、こんなに人当たりもいいのに。  ……どうして、彼に対する不安が拭えないのだろう。  きっと不審者に襲われたせいだ、と強引に自分の心を納得させる。  さほど時間を置かず、美恵子の自宅マンションへと車は辿りついた。静かに路上に駐車する。 「わざわざ、ありがとうございました」  助手席で頭を下げる。 「気にせんでええ。仕事やさかい」  軽く言うと、男は車を降りた。そこで見送ってくれるのかと思えば、ふらりとエントランスへと足を向けている。 「あ、あの、西園寺さん」 「ん。親御さんにちゃんと話しとかんとあかんやろ。一人で遅くなったなんて言うたら、怒られるやろうし」 「でも先刻(さっき)、あのことは言わないって」  慌てて小走りに後ろを追いかける。 「大丈夫や。ちゃんと、適当に話作っとくさかい。八木さんは、ワシの話以上のことを言わへんかったらええだけや」 「……作るんですか」  僅かに呆れて呟く。にやりと笑って、男はオートロックの扉の前で足を止めた。  母親は、玄関に出迎えに来た時点ではかなり怒っているようだった。が、美恵子の傍らに立つ西園寺を目にして、呆気に取られる。  そして西園寺の、『病院で穂乃香と一緒に事件当時の話を聞いていて遅くなった』という話とそつのない謝罪を、社交的な笑みをこぼしながら受け入れた。  それからしばらくの間、西園寺と母は互いに軽い会釈と共にそれを続けている。  ……大人って凄い。  微妙に違った方向性で感心していた美恵子は、ふいに二人から視線を向けられて一瞬怯んだ。 「ほら美恵子、ちゃんとお礼を言いなさい」 「あ、ありがとうございます」  頭を下げたその上で、西園寺の明るい声が通る。 「いや、ホンマ、気にせんとって下さい。じゃあ、八木さん。何も心配要らへんから、安心して休みぃ」  失礼します、と母親に告げて、刑事は玄関を辞した。  一人、ダイニングで夕食を摂りながら、美恵子は興奮した母親の話を聞いている。 「でも凄いわねぇ。あの若さで、警視庁の刑事さんだなんて。関西弁だったけど、あちら出身だとしたら、かなりのエリートよね」 「そうなの?」  きょとん、と尋ねる。それに、母親はけらけらと笑った。 「刑事ドラマなんかでは大体そうじゃない」 「ああ……」  曖昧に笑みを浮かべ、食事を再開する。 「でも、そういう事情なら仕方ないけど、今度からはもう少し早く連絡してきてね。もう心配で心配で、学校に電話するところだったんだから」 「ごめんなさい。あの、病院だったから電話できなくて」  ぎこちなくごまかすのには成功したらしい。母親はこれからは気をつけるように、と念を押して、その話は終わった。  入浴を済ませ、自分の部屋に戻って小さく息をつく。  携帯電話を開き、メールの受信を試みた。が、新たなメールは受け取れないままだ。  充電コードを嵌めて、ベッドに座りこむ。  次の瞬間、視界の片隅に白いものを認め、反射的に腰を浮かせる。  それは壁に貼った、アイドルのポスターだった。白い衣装を着て、爽やかな笑みを浮かべている。  背筋に走ったざわめきを消すために、腕をさする。  意を決して、壁に歩み寄って手を延ばした。壁に刺した画鋲を慎重に外していく。  アイドルに嫌悪感が生じた訳ではなかったが、しばらくは、白い人影を目にしたくはなかったのだ。
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