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五日前
それから二日ほどは、何事もなく過ぎた。
穂乃香が心配そうな視線を向けてくる。
「みえちゃん、顔色悪いよ? 大丈夫?」
「あ、うん。ちょっと寝不足なだけ。大丈夫大丈夫」
慌てて笑顔を作ったが、友人の表情からは曇りがとれない。
お見舞に来ているのに、反対に心配をかけているようでは駄目だ。
そう思ってはいるのだが、美恵子の座る椅子の左側の窓にかかる、白いカーテンがどうしても怖い。
早く帰って休んだ方がいい、という穂乃香の気遣いに甘え、美恵子はその日は早めに病室を出た。
しかしすぐに帰宅する気にもなれず、人気の少ないロビーの椅子に腰を下ろす。
夕方ということもあり、周囲の椅子に座っている人は殆どいない。遠慮なく、深く、長く溜め息をついた。
あの夜以来、視界に何か白い物が映ったり、急に何かが動いたりすると、反射的な恐怖を覚えるようになってきていた。
四六時中びくびくし、眠りも浅くなり、奇妙な夢を見て夜中に目が覚めることもある。
……このままでは、気持ちが保たない。
「疲れてるみたいやな」
俯いた視界に、黒いスラックスと黒い靴が入ってくる。その僅かな不吉さにすら安堵して、ゆっくりと顔を上げた。
「西園寺、さん」
「目の下。隈、できてるで。若い女の子やのに」
「セクハラですね」
ぴしゃりと言って、背中を椅子にもたせかけた。やや上方を見上げられるだけでも、まだましか。
肩を竦め、男は美恵子の隣に腰掛けた。セクハラと言われたのを気にしたのか、間に一人分ぐらいの空間を空けている。
「西園寺さん。犯人は捕まえられるんですか?」
「全力は尽くしとる」
絞り出した声にさらりと告げられて、唇を噛んだ。
「いつになりますか」
「最善も尽くしとる」
「約束は」
「できん」
あっさりと認められて、膝の上で拳を握る。
「……私、今夜、またこの辺を歩いてみます。犯人が出てくるかもしれないし、そうしたら」
「あかん」
きっぱりと断じられて、鋭く顔を上げた。
「どうしてですか!」
首を曲げてこちらを見ていた西園寺と視線が合う。
「日本の警察は、囮捜査を認めてへん。ましてや未成年の女の子を囮に使うなんてもってのほかや。そんなもん、検討することすらできん。……大丈夫や。ワシがちゃんと犯人を処分する」
「いつになるんですか。何年先ですか。私……、わたし」
怖いのだと。怖くて苦しくて辛くてふいに泣き出しそうになるのだと、そう訴えかけそうになって、息を吸いこんで言葉を塞いだ。
「……来週、大会があるんです。なのに、こんな状態じゃまともに部活もできません。今が大事なんです。ほのちゃんや聡美ちゃんの分も私が頑張らなくちゃいけないのに」
西園寺が小さく鼻を鳴らした。
「自分にできること以上を頑張ったって、何の意味もない。やらんでええことに首を突っこむんやない」
とりつく島のない返事に、反射的に立ち上がった。
「じゃあ、このままいつ解決するか判らないのを、ずっと待っていろって言うんですか?」
ざわり、と遠いところで空気がざわめいた。
西園寺は、真面目な顔で美恵子を見上げている。
「そうや」
簡潔に一言だけ告げられて、息を飲んだ。
「もう、いいです!」
叫ぶように言い放つと、踵を返した。小走りに出口へと向かう。人とぶつかりそうになったが、何とかすり抜ける。
西園寺の声が追ってきた気がしたが、それは静かに閉まっていく自動ドアに遮断された。
病院を飛び出した美恵子は、先日と同じように闇雲に走っているように見えたかもしれない。しかし、彼女は今日、学校でこの病院近辺の地図を調べてきていた。
冷静に、人気のないであろう住宅街へと進む。しかし、数ブロック走ればすぐに大通りに出られるような、そんな場所へ。
病院のロビーで時間を潰したおかげで、もう陽は暮れかかっている。暗くなるまで、そんなにはかからない。
場所は住宅街の道路。空は藍色に染まり、周囲は薄闇に満ちている。
ゆっくりと歩きながら、時々携帯の画面に視線を落とす。
やがて、ばちん、と大きな音を立てて、数メートル前方で街灯が消えた。
はっとして、周囲を見渡す。
立て続けに音を立て、次々に街灯の灯りが消えていった。
携帯は、圏外。
用心深く、周囲の気配を探る。
一度経験したことだ。心の準備はできている。
震える指先を握りこみ、美恵子は重苦しい沈黙に耐えていた。
その頭上、街灯が取りつけられていた電柱の上から、自分めがけて人影が飛びかかってくることには気づかないままに。
「きゃぁあ!」
衝撃に、悲鳴を上げる。
全く予測できていなかった身体は、無抵抗にアスファルトに叩きつけられる。
うつ伏せに倒れた身体で、何とか起きあがろうとしたところを、腰の上に鈍い重みが加わった。上体を捻ってそれに向き直ろうとするが、両手が美恵子の肩を地面に押しつける。
何とか視界の端に、ぼんやりとした白い姿が映るだけだ。
相手の呼吸すら、聞こえない。
「……貴方が、聡美ちゃんとほのちゃんを、襲ったの?」
背筋に汗が滲むのを無視して、できる限りはっきりとした声で尋ねる。
人影の動きは全くない。
前回と比べ、距離が近い。視界にあまり入ってこないとはいえ、その造作がはっきりしないのは、きっと何か、顔を覆うマスクのようなものをかぶっているのだろう。
右肩を押しつける重みが、ふいに消えた。
前に見た時に右手に持っていたものは。
何とか身体を振り払おうと、逃れようともがくけれど、相手は馬乗りになっていて、びくともしない。
「い、やぁ……」
掠れた声が漏れて、そして。
「頭下げぇ!」
怒声に、反射的に顔を伏せる。数秒も間を置かず、銃声が響いた。
殆どアスファルトしか見えない視界に、ばらばらと白い粉の様なものが降り注ぐ。それは地面に落ちるかどうかという辺りで、溶けるように消えていった。
「次郎五郎!」
どん、と美恵子の上に乗っていた相手の身体が、何かがぶつかったかのように鈍く揺れる。のしかかっていた重みが薄れ、その隙に、急いで身体の下から抜け出した。這うように二メートルほど離れて、背後を向く。
「ひゃ……!」
声にならない悲鳴が、喉を灼いた。
美恵子を襲っていた人影は、やはり白い。ぼんやりと形作られた身体が、路上に蹲っている。
その頭部は、拳二つ分ぐらいの大きさでごっそりと削られていた。
その断面すら、薄く光を放つ白い物体でできている。
ゆらり、と人影が上体を起こしかけた。
近くにいた銀色の犬が、低く唸り声を上げる。
「動くんやないで」
張りつめた声が、更に向こう側から聞こえてくる。
黒い背広が闇に半ば溶けた姿で、西園寺四郎がこちらへ銃口を向けていた。
「西園寺、さん……」
「行け、次郎!」
美恵子の呟きにも反応せず、西園寺は銀色の犬へ命令を放つ。
軽く跳ねるように、次郎五郎は近くの電柱へと向かった。口に咥えていた一枚の細長い紙を、器用に鼻面を使って電柱に貼りつける。
瞬間、ちかちかと瞬いて電灯が灯った。
「え?」
「八木さん。その光の中に入ってぇ。絶対に、爪先だけでも外に出ぇへんように気をつけて」
「西園寺さん、何で」
「早ぅ!」
怒鳴るように促されて、慌てて立ち上がった。小走りに丸い光の輪の中へ入る。
次郎五郎が、その前を護るように立つ。
残された、白い、人のかたちをしたものは、美恵子を追うように動きかけた。
が。
「一歩でも動いたら、今度は足を撃ち抜くで」
西園寺の脅しに、ぴたりと動きを止める。
つい数十秒前、頭を撃ち抜いたにしては奇妙な牽制だ。
そして、それが功を奏していることも。
「……あの、その……人、何なんですか?」
恐怖と戸惑いで、つい率直に問いかける。
「見えとるんやろう、八木さん。これだけやない、次郎五郎も、あと、普通は見えへんもんも、普段から」
びく、と美恵子の身体が震える。
それは、襲われたこと、殺されかけたこと、相手の奇妙な風体、それらとは全く関係のないところで。
「……やっぱり、その人、生きてないんですか」
諦めて、美恵子は小さく呟いた。
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