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七日前
翌日、美恵子は生欠伸を片手で隠しながら、校舎を繋ぐ渡り廊下を歩いていた。
前日にあんな目にあって、流石に熟睡できるほど神経は太くない。寝つくまでに時間がかかり、その後も浅い眠りと覚醒を繰り返していたのだ。
「どうしたの? 寝不足?」
隣を歩くクラスメイトが尋ねてくる。ちょっとね、と小さく笑いながら美恵子はごまかした。
午後ならばともかく、今は昼食前だ。眠気が襲って来るには早すぎる。
何気なく視線を窓の外へ向け、彼女は小さく息を飲んだ。気づいた友人が覗きこんでくる。
「あれ? 誰かな」
二人の視線の先には、黒いスーツの男の姿があった。前方を指し示しながらその傍らに立っているのは教頭先生だ。
「誰だろうね……」
にわかに頭痛を覚えながら、さりげなく美恵子は歩くコースを窓から離れるように修正した。
放課後、ホームルームが早めに終わり、美恵子は部活棟へと向かっていた。
まだ殆どの生徒は校舎の中だろう。廊下にも下駄箱にも、人の気配はない。
渡り廊下の下を潜り抜け、埃っぽいグラウンドが視界に入ったところで、足を止める。
広いグラウンドの中央辺り。黒いスーツの男が、両手をスラックスのポケットに突っこんで立っていた。
午前中から今まで、彼の姿を見ることはなかった。それでも、まだ校内にいることを予想しなかった訳ではない。だが、彼から数メートル離れた場所で地面の匂いを嗅いでいる銀色の犬を認め、慌てて美恵子は走り出した。
「西園寺さん!」
その声に、男が肩越しに振り返る。にやり、と笑みを浮かべて、身体ごとこちらへ向き直った。
「おぅ、一日ぶり。元気やった?」
和やかに声をかけてくるが、それに応える余裕はない。
「あ、あの、すみません。グラウンドに犬を入れるのはちょっと……」
一瞬きょとんとした目で見返されるが、すぐに理解したのか苦笑する。
「ああ、そうやな。すまん。次郎!」
名を呼ぶと、銀色の犬は鋭く顔を上げ、小走りにこちらへ戻ってくる。西園寺が延ばした掌の下に自ら潜りこみ、鼻面を押しつけた。
「その子、昨夜救けてくれた子ですよね。次郎くん、ですか?」
その場にしゃがみこみ、手を差しのべてみる。犬は注意深く顔を寄せ、匂いを嗅いできた。
「ん。正式には次郎五郎て言うんやけど」
「……変わった名前ですね」
返事に迷ってそう返す。
「これから部活なん?」
次郎五郎が顔を離した辺りで西園寺が尋ねた。
「はい、大会が近いので。あまり遅くまではできないんですけど」
部活動の終了時間を切り上げるように、という指示は、あの事件を受けてのことだ。
色々な意味での歯がゆさに、表情が暗くなる。
「吉谷さんらと同じ部活やったっけ。陸上部か」
が、西園寺はそのまま話を振ってきた。
「そうです」
「足、速かったもんなぁ。ええ記録持ってるんと違う?」
くつくつと笑いながら、問われた。
昨日、彼から逃げ出したことを思い出し、羞恥に口ごもる。
「吉谷さんも、早かったん?」
だが、ふいに問いかけられて、我に返った。
この男がここにいるのは、仕事のためだ。
「……タイムは、私とさほど変わりません。どちらかと言うと、長距離向きなのかも、って先生が言っていたことがありますけど」
次郎五郎に差し出していた手を、無意識に引いた。銀色の毛並みが、小首を傾げるように揺れる。
「何か、部活の中でごたついてたとか言うこともないねんな?」
「ありません。ほのちゃん……、吉谷さんはおとなしくて、あまり前にでることもないので」
あの穏やかな友人が、トラブルに見舞われていたようなことは、ありえない。
静かに、しかしはっきりと断言した美恵子に、小さく頷く。
「ん。おおきに。まあ、邪魔にならんように後は余所に行っとるわ。頑張りぃな」
そう告げて、男はひらりと片手を振る。忠実な犬が、すっとその傍に寄り添った。
美恵子は身軽に立ち上がる。ぺこ、と小さく下げた頭の上に、声がかけられた。
「陽が暮れる前には家に戻るようにな」
僅かに不安を覚えて、美恵子は頷いた。
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