fly me to the moon

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fly me to the moon

 急激な暑さと圧倒的な力に体が押さえつけられる。激しい振動に狭い空間、オリガの視界もどんどん狭くなっていく。息が苦しい、暑くて、狭くて……そして――。  不意に体が軽くなったかと思うと、つぶったままの目にも感じられるほど、ほのかに明るい場所へ出た。  振動の余波で頭がくらくらする。なんとか瞼を開けると、オリガの目の前に光の輪を背にして大きな鳥が立っていた。煙草のにおいを嗅ぎつけて鼻をひくつかせる。焦点が合うと、それは鳥ではなく翼を持つ人だとわかった。  と、オリガの視線に気づいたのか、翼のある人の第一声が響いた。 「ようこそ、名犬オリガ」  そう言って右手指に煙草をはさんだままで両手を広げた。ついでに純白の翼も大きく広がる。オリガは目をしばたかせて、羽をもつ人の顔を見あげた。 「……ここは、月?」  星がきらめく空と、肉球に感じるふわふわした足元。博士から聞いていた月とあまりに様子が違う。 「んー、残念。ここは地上と天上の間(はざま)」 「月へ行く途中かしら。あなたは、神さま?」  オリガは小首をかしげて訊ねた。 「俺はたんなる下っ端、神のお使い」  白い翼と頭のうえで輝く光の輪。間違いなく、天使だ。ひだがたっぷりと取られた白く光沢のある布をまとっている。袖なしで、丈は膝小僧がみえるくらい。靴は編み上げのサンダル。天使は煙草をくわえたまま、金のサッシュに挟んだ巻物を取り出した。  オリガはいきなり天使の足の間に、鼻先を突っ込んだ。白い裾が、大きくめくれ上がった。 「おわっ! な、何をする!!」  天使は叫ぶと、裾を押さえてオリガの侵入を阻止した。 「お顔がとても綺麗で、どっちか分からないから。ぱんつは履いているのね」 「履くよ、ぱんつくらい! 俺は男でも女でもねぇよ。勘弁してよ。賢いって思っていたのに」  天使は煙草を小さな箱に入れて始末をした。そして銀の短い髪をゆらし、青い瞳でしかめっ面を作った。オリガが三角の耳をしゃんと立てて白い足先をそろえて座ると、天使はうなずいて、巻物を上下に開いて読み上げた。 『オリガよ。そなたは生前、人間からの理不尽な扱いによく耐えた。その労に報い、願いを一つかなえよう』  高らかに歌うように天使は告げた。神よりと最後の一節を厳かに口にすると、天使はふう、と息をつき書状を巻いて腰に戻した。 「せいぜん? あら、わたし死んだの?」  オリガは黒い目をきょとんとさせた。 「ああ、そうだ。実験だかなんだか知らねぇけど、人間たちのくだらない競争におまえは巻き込まれて死んだ」  新しい煙草を唇にくわえなおした天使は、膝を折ってオリガの額から鼻へ続く白い眉間を指先で撫でた。オリガは首を傾げた。 「何も覚えてねぇの?」  天使は頭をかくと、眉をよせた。 「博士が、オリガは空を飛ぶんだって言ったのよ。天使さまは飛べるのね。飛ぶってどんな感じ?」 「どんな感じって……ってか、覚えてるじゃん」  オリガは口をつぐんでうつむいた。さっきまでの長い舌先もぜんぶ仕舞って。天使はオリガに寄り添い、声を落とした。 「復讐するって願い事も受け付けるぜ。もっとも、コーヒーに毎回埃が入るとか、靴下にすぐ穴が開くとかその程度だけど」 「それは、たんなる嫌がらせじゃない」 「仕方ねえよ、俺ができるのはそれくらいだ」  天使が顔を赤らめて弁解めいたことを言うと、オリガはふるふると頭をふった。 「なんで? 実験でひどい目にあっただろう?」 「そんな時は、博士はわたしの頭を撫でて、よく我慢したね偉いねって褒めてくれたわ」 「訓練だかなんだかしらんけど、犬に服なんか着せてさ」 「ロケットに乗るには、宇宙服を着るんだもの。博士は、よく似合う、可愛いって」  誇らしげにオリガは胸を張った。他の犬たちは嫌がったが、オリガは平気だった。 「狭い檻の中に閉じ込められて」 「ロケットの中は狭いんだもの、大人しくしている辛抱強さがいるの。でも、博士は散歩に連れ出してくれたわ。塀の中だけだけど」  オリガは耳をピンとさせ、黒目をきらめかせた。 「みんな帰った後に夜のお散歩に出かけるの。高い塀に囲まれていたけど、中はとても広かったのよ。外に出ると気持ちがよかった。いろんな匂いがするのよ。湿った土や夜露に濡れる草とか、虫や蛙の匂いもしていたわ。あちこち嗅ぎまわるわたしに、博士は気長に付き合ってくれた」  たとえ吐く息が白くなっても、博士はオリガに付き合ったという。 「博士は海なんて生まれてこのかた見たことなんかないって言ってた。月の光に雲が青白く縁取られて、写真で見た海の渚みたいだって指さして。月がまあるいときには、博士は歌うの。わたしを月に連れてって……」 「対立国の歌かよ。いい度胸だな」  オリガは肩を落とした。 「他の博士たちとは仲がよくなかったみたい」  生き物を実験使うことに、博士は割り切れなかったのだ。戻れることのない片道切符のロケット。 「博士は、ね。一度わたしたちをみんな逃がしたの」 「え! そりゃ、大騒ぎだ」 「うん。みんな大騒ぎ。博士は胸を掴まれて、ゆすられたり怒鳴られたりしていた。おまえが犬の代わりにロケットに乗れるのか、いっそおまえが」  ……゜燃えて死ぬか。オリガは大柄な男に罵られる博士を見た。 「だから戻ったのか。博士のために」 「野良だったわたしに名前をつけて呼んでくれた。優しくしてくれたのは、博士だけだったもの」  オリガは覚えているのだろう。毎朝、赤毛に寝癖をつけて、ボタンを掛け違えたシャツで研究室へやってくる博士を。優しく撫でた手も、夜空に消える歌も。 「そうだろうな。でもな、俺は奴を許すことは出来ない」 「そんな……」  でもな、と重ねて言うと、天使はオリガの顔を両手で挟んだ。 「同じく罰することもできない。なんせ下っ端の使い走りだ。オリガ、お前の望みを叶える」 「ありがとう、ありがとう天使さま。博士のところへ行かせて。お別れがしたいの」  よし、わかったと天使は立ち上がると、指をぱちんと鳴らした。  ポンっとオリガの背中に翼が生えた。ふわんと宙に浮かんで、ぎくしゃくと羽を動かすと、不慣れなオリガの体は左右に揺れる。 「呼吸に合わせてみて。無理に動かそうとしないで」  オリガは足を縮めたまま、深呼吸を繰り返し、おっかなびっくりと飛んだ。そのうち、犬かきのように足で空(くう)を掻くと、翼も自然に羽ばたいた。 「よし、行っといで。見えるかな、あそこにいるのが」  雲の切れ目から、実験ロケット打ち上げの指令室が見えた。成功だ、と歓声が響く中でただ一人、両手で顔を覆い肩をふるわせる白衣の男性がいる。  オリガは迷わず雲の海へと飛び込む。 「犬ってやつは、恨み言ひとつ言わない。たった一つの願い事はいつもこれだ」  まっすぐに博士の元へと飛んでいくオリガを見送りながら、天使はつぶやいた。 「まったく煙草でも吸ってなきゃ、やってられないよ。奴らへの怒りでラッパを吹いちまいそうになる」  いま翼のあるオリガは、泣き崩れる博士の耳元に鼻先を寄せている。 「分かってるよ、なんて言っているか」  天使は眉を寄せて、新しい煙草に火をつけた。 「あなたの願いが叶いますように、だろ? まったく、どっちが天使か分りゃしない」  天使は長く長く煙を吐いた。それから煙草を挟んだ右手の親指で目をこすった。 煙が目に沁みたからと、天使はきっと答えただろう。
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