求められる筐体

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 彼は大学の近くに一人暮らしをしている。その最寄駅の方が先に訪れた。責任として送ると言ってくれたのをにこやかにお断りして、後ろ髪引かれる気持ちにもお断りするべく、そこで別れた。  「ほんとに送らなくて平気? なんか危なっかしいけど。」  「大丈夫です。未練に押し負けてしまうので、ここで。」  「それはマズいから、じゃあ、気を付けて。」  「はい。本当にありがとうございました。……楽しかったです。」  急行の接続待ちを知らせるアナウンスが、遠くに聞こえる。雨が降り出したかもしれない。そう言えば、学校近くの神社に、紫陽花が咲き始めていた。季節が、移ろい始めているのだ。  最後の最後に嘘をついてしまった、とぼんやり考えた。楽しくは、なかったな。階段を下りていく後姿を目に焼き付けながら、このまま各駅停車で帰ろうと思った。  急行に乗り換えると、15分ほど早く帰り着く。そうすると、バイトを終えた龍弥に駅前で鉢合わせる可能性が、高くなった。このところなるべく、タイミングが合わないようにしている。  陵介さんを諦めるからといって、龍弥のところへ戻るような無粋な真似だけは、してはならない。とはいえ、今顔を合わせてしまっては、揺らいでしまいそうな気がした。  急行に乗り換える人が多く、車内はガラガラになった。この駅で4分も停車するらしい。ドアの横に立ったままのわたしは、立っている方が目立つことに気付いて、座席の方を見やった。  座る気になれなかった。今になって沸々と後悔の念が押し寄せていた。変わると決めたのではなかったか。こんな展開くらい、予想の範囲内だったはずじゃないか。  わたしが楽しくなかったのは、わたしといて楽しそうではない彼の姿に打ちのめされてしまったからだ。だけど、そんなこと、今は、当然。いつかずっと、もっと先まで待とうと決めていたはずだったのに ――。  そこまで考えたところで、咄嗟に身体が動いてしまった。追い縋ってどんな顔をするかも、何を言うかも正解が見えなかった。それでも、このまま後悔することだけは、避けなくてはならないと思った。  そもそも、捉まえられる保証すらなかった。彼が降りてから3分ほど経っていただろうか。この駅から徒歩で帰れる何処かに住んでいる、という情報しか与えられていないわたしには、追いかけるべき方角すら手がかりがない。とはいえ、この状況で文明に頼るという選択肢は、なかった。自力で追い付けたら、何か言えるような気がしていた。  階段を駆け下りながら、どちらの出口から出ようか、頭をフル回転させた。バイト先のコンビニに近い方が正解だろうか。右、左、右、左。改札を抜けたわたしは何度か両サイドを目で追ったが、探している背中を見出すことはできなかった。焦燥感に苛まれる。  そのときだった。思いもよらない方角から、幸運が差し込んできた。  「あれ、おかえり。」  正面のカフェから、陵介さんが出てきたのだった。
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