揺さぶられる本心

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 連れていかれたのは、雑居ビルの地下にある、とても雑多な感じのする定食屋だった。お洒落な雰囲気とは程遠い割には、女性客の姿も多い。そして12時前だというのに、まさかの満席。これはもう、美味しいものが出てくる予感しかなかった。  「回転早いからすぐ入れると思うけど、時間大丈夫? ……今更、なんだけど。」  少し決まりが悪そうに自嘲して見せた彼は、思いの外可愛らしく見えた。どちらかというと犬系だ。全力で尻尾を振ってアピールしてくる感じの。  犬は、嫌いではない。しかし、苦手だ。どうにも、気を使う生き物だと思っている。申し訳なくなるのだ。そんなにいつも機嫌良くしてくれなくていいのに、毎回玄関まで来てくれなくていいのに、たまには気乗りしないことだってあるだろうに……たまには、拒絶したっていいのに。  例えば、昨日話したばっかなのに聞いてなかったの? と責められた方が、きっと楽だった。申し訳なさが募る。けれど、何だか今は、その優しさを素直に頂戴しようと思った。甘えて良い相手ではないが、せっかくのランチを楽しく過ごすくらいで、今更大きく勘違いをすることもないだろう。  「時間を持て余して困っていたんです。だから、ランチお付き合いさせてください。沢山は食べられないかもしれませんけど、おすすめがあれば、是非。」  控えめに笑いかけながら言うと、彼はわかり易く目を輝かせた。  「やった! じゃあおすすめのやつ2つ注文するから、どっちも食べれるだけ食べて!」  そう言うだろうな、とは思ったものの、本当にわかり易くて……やっぱり可愛らしい人だなと思った。緊張していた心が解れていったところに、少しずつ健さんが染み入って温めてくれている気がした。あぁ、こういう人を好きになることができたら、どんなに ―― 楽だろう。  彼の言った通り、ものの数分でわたしたちはテーブル席へ案内された。よく来ているのか、彼は座るなり手際よく、ランチメニューの中から2品注文する。そしてあっという間に、わたしの視線を捉えた。  「ねぇ、茉帆ちゃん。好きな人がいるって言ってたでしょ?」  早速のジャブ過ぎるだろ。わたしが瞬時に身構えたのを、たぶん彼は見逃さなかった。そして、諭すような口調で付け加えた。  「別に茉帆ちゃんの恋路を直接邪魔するつもりはないし、好きな人がいることを俺の前で遠慮することもないよ。申し訳ないとか、気を使う必要もない。茉帆ちゃんはちゃんと伝えてくれたし、それでもって言ってるのは俺なんだから、堂々としてて。   嫌味に聞こえたなら俺の言い方が悪かった、ごめんね。そうじゃなくてね、純粋に、興味があって。茉帆ちゃんの好きな人って、どんな人なのかなって。」  実はそれが最もタブーな質問だとは思いもしない彼に、結局わたしは申し訳ない気持ちを抱かざるを得なかった。彼の優しさにほだされかけて、うっかり忘れるところだった。わたしはこの人には、最も笑いかけてはいけないのだ。  ただ、この真っ直ぐにキラキラを投げかけてくる人に対して、しらっと嘘を塗り重ねられるほど、今のわたしは無感情ではなかった。なるべく誠実でありたい、と願うのは本心だ。どうやっても無理なのは承知のはずなのに、またそうやって逃げ道を探してしまう。誰を、何を、どうしたいんだ、わたしは。  とにかく、「もう諦めることにしたので」と言うわけには、絶対にいかなかった。  「そうですね……ちょっと意地悪です。」  捻り出したのがこれだった。正直すぎる一言だ。今まで人とロクにまともな会話をしてこなかったのが丸わかりの、間抜けな返答だと我ながら思った。  わたしはどんな顔をしていただろう。幸せそうでなかったことだけは確かなようで、健さんはその反応を待ってましたとばかりにつついてきた。  「茉帆ちゃんが誰を好きでも、もちろん構わないんだけど。俺に口出しする権利ないのは承知の上で、それでも昨日から気になって仕方なくてさ……茉帆ちゃん、いい恋してるの? 楽しい? 幸せ?」  なかなか昼から核心をついてくる人だ。午前中をやり過ごして何とか頭が回るようになってきたばかりのところに、そういうストレートは勘弁していただきたい。  迂闊だったが、よくある話だ。「好きな人のことはよく見てるからわかるんだよ」という現象なのだろう。わたしが陵介さんを思い浮かべながら話をしているとき、所謂"恋する乙女"の顔をしていないことに、健さんはあっという間に気付いてしまったということだ。  さて、どう交わすのが正解だろうか。幸せです、と弁解するのはあまりに白々しい。実は不倫で、なんてカミングアウトも唐突過ぎる。恋をしているのに浮かれていない理由なんて、やっぱり他にはそうそうないだろう。可能な限り誠実でありたい、という気持ちに沿って、わたしは言葉を選びながら回答した。  「……眼中にないんです、わたしのこと。全然相手にしてもらえなくて、本音も見せてもらえなくて。だけど、わたしも諦めきれなくって。そんなこんなで、もう一年以上になります。それでも、彼を好きになれたことは、幸せだと思っています。」  健さんは、気遣わしげな表情でわたしの告白を聞いてくれた。不思議な気持ちだった。こんなことを他人に話したのはもちろん初めてだったし、その初めての相手が、あろうことか陵介さんの親友で、わたしのことを好きだと言ってくれていて、もうカオスしかない。めちゃくちゃなんだけど、なのに不思議と、心が軽くなっていくような気がした。  わたしの話を噛み締めるように押し黙っていた健さんだったが、しばらくすると下を向いたまま、呟くように言った。  「そういうことか。それはツラかったね。」  そう言ってくれている本人が一番頭を悩ませているように見えて、一瞬軽くなった心がまた重くなった。やっぱり健さんにする話ではなかった。目の前で敢えてダメージを与えるようなことを言う必要はなかったではないか。  後悔に押し潰されそうになったそのとき、助け船を出すかのようにいい匂いが近づいてきて、明らかに場を和ませた。  「さぁ、食べて食べて! 元気出るよ。」  すっかりいつもの健さんだった。彼の優しさの裏には、人の気持ちを汲み取る繊細な心が忙しなく働いているのだと思った。そして今は、その働きに感謝すべきときだと思った。このランチを堪能することが、楽しそうに時間を共にすることが、きっと、唯一の慰めになる。彼にとっても、わたしにとっても。
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